3.11「あの日から3年」
東日本大震災3周年追悼式典
震災から3年目を迎える平成26年3月11日。東日本大震災3周年追悼式典が全国で開催された。南三陸町でも2千人を超える遺族・町民、関係者が集まった。この日は特別な日と皆が捉え、4年目を迎え一つの区切りとしての考えもあった。
式典中「遺族の言葉」では、役場職員の殉職者の息子さんが遺族代表の言葉を語った。彼の卒業の時らしく、その時に伝えられなかった言葉を伝えた。「とうさん。無事卒業したよ。4年間ありがとう。4年目を迎え、努力する約束をします。」と檀上で語った。
時間と共に風化していく中、東京オリンピックもあり、何時まで人々が「我が町」を忘れる事無くいてくれるか、と思うことがある。女川町では震災前の人口から28%減少でコンパクトシティーでの早期再建を目指していた。南三陸町は18%の減少があり、市街地再生から住宅地造成の順に、町は事業の展開を進めている。
2014/3/11(3/12掲載)
復興造成が加速!
造成が進む東地区東
3月9日に南三陸町内の入谷から志津川の高台移転の現場を取材した。町民との話の中で町の変化に驚いている。入谷の災害公営住宅も集合ビルの建設と、戸建ての公営住宅の区画も十分に進んでいるようだ。
志津川の東地区の東も山の造成が始まり、赤土の山肌が大きく広がっていた。急ピッチで進む造成だが、この後環境整備として電気、上下水道、区画整理、道路などがあり、まだまだこれからともいえる。サッカーの長谷部選手支援の「あさひ幼稚園」も移築が決定していると聞く。
2014/3/9(3/12掲載)
グラントスカルピン
天然ホヤの前を泳ぐクチバシカジカ
震災前、南三陸町志津川の南町にダイビングショップ「グラントスカルピン」があった。水中カメラマンとして「ダンゴウオ」「クチバシカジカ」のいる海を全国へ発信し、志津川湾の素晴らしさを伝えていた。ショップ名は「クチバシカジカ」の英名で、町の観光キャラクターとして商工会でも使用している。
ダイバーの方は震災後にしばらくぶりで海底を見て「色が無くなった」「陸が海底に沈んだ」と語っていた。しかし、最近海底に潜っての光景は自然の回復の姿も伝えた。2匹の愛らしい魚を見つけ、感動と喜びを話していた。
天然ホヤの前を悠々と泳ぐ「クチバシカジカ」。自然は確かに再生を遂げている。是非「南三陸の素晴らしい海に会いに来て下さい!」
2014/3/9(3/12掲載)
志津川高校卒業式
2014/3/1(3/12掲載)
南三陸町の子供たち大活躍!
入賞した子供たち
登米市水の里ホールにて2月11日、第46回「仙北地区ピアノコンクール」が開催され、登米市を中心に石巻、大崎、南三陸から多くの幼小中のピアノが大好きな子供達が集まった。プログラムの発表予定では130名を超える参加者だったが、100名という発表があり大雪の中を集まった。
そんな新春発表会に、南三陸町からも戸小・入小・志津川小・戸中の名前がプログラムに載っていた。5割ぐらいが我が町からの参加を占めていた。E~Aまでの入賞者には、D級で入谷小の三浦さんが最優秀。B級でも戸中の佐々木さんが最優秀を取り、大会の特別賞も受賞され、南三陸町のピアノのレベルの高さに驚かされた。
「遠藤ゆかりピアノ教室」は震災で五日町にあった教室や楽器の全てを流失したが、子供たちの「先生に教えてもらいたい」という気持ちに応え、自宅を改装して無償で子供たちにピアノを指導している。今回、被災しながらも頑張っている子供達を取材してくださいと依頼され、子供たちの活躍を見届けた。7人の参加で大部分が各クラスの賞に入った。
写真は入賞した子供たちだが、半分以上が南三陸町の子供たちだった。子供たちの個人活躍を、南三陸町の仮設で暮らす町民の人達に「子供たちが被災しても頑張っている姿を届けたい」と遠藤先生は話していた。
2014/2/11(2/25掲載)
志津川市街地で人命救助
南三陸町志津川市街地内での「人命救助」で町内の造船業社長、他2名が表彰された。
年越しの前日である昨年12月30日午後4時頃。新井田川河口で歌津地区の釣り人が誤って川に落ち、助けを求めていた。夕方の冷え込む中、河口隣にある造船所社長の千葉さんと、居合わせた人たちが救助にあたった。ロープを使い3人で連携しての救助劇だったという。
志津川地区には3河川があり、その中でも釣り場として行きやすい新井田川河口は穴場として釣り人が訪れている。しかし、河口に向かって右側は津波で破壊され現在も冠水しており、左側はバリケードがあり立ち入り禁止となっている。志津川地区の海岸は被災からの復旧工事が進む中、工事の大型車両が多数行き来している。今年に入り志津川市街地の嵩上げが本格化するなか、危険な環境は至る所にある。まだまだ復興は始まったばかりだ。
2014/1/30(2/3掲載)
体協 長野県上田市から150万円の義援金
南三陸町役場会議室において、1月21日午後7時から平成25年度南三陸町体育協会第2回理事会が開催され、会長・各理事・事務局を合わせ13名が参加した。
25年度の事業報告がなされ、26年度の事業計画・総会開催について協議された。また、白石市体協を通して長野県上田市より南三陸町体育協会への、震災後2回に渡る寄付金150万円の使用についての協議がなされた。上田市には30を超える参加団体があり、昨年7月に高橋会長をはじめとする5名が「ご支援のお礼」にうかがい、上田市長ほか関係者の歓迎を受けた。その後11月に入り上田副市長ほか6名が再度来町され、新たに募金活動で集まった支援金を届けてくれた。
協議の中で150万円の使い道として、南三陸町と上田市との体協団体のスポーツ交流として、上田市を訪れる提案や、上田市の小学校の志津川小への「寄せ書き」が贈られた経緯もあり、スポーツ少年団・指導者の各種大会交流をしてはなど、今後の方向性は事務局と三役で協議する事で会議を終えた。上田市との震災を通した本町との交流を、今後に伝え残す事業の在り方を模索していく。
被災地の体育協会の活動環境整備にはまだ時間がかかる中で、各団体は限られた施設を活用し会員間の交流を深め、協会の継続に努めている。
2014/1/21(2/3掲載)
防災庁舎は町長の「解体」か県知事の「保存」か。
津波の遺構の存続が、年末年始にメディアで「南三陸町防災対策庁舎」の解体か保存かが、県の立ち上げた津波遺構審議委員会で、議論されていると報道された。南三陸町長は、「復興への障害」「保存維持経費」「遺族・町民の心情」などの観点から、解体をすると報道などで発言している。しかし、現在解体は県の管轄となり、県費での庁舎解体の元にある。遺構としての保存の国からの交付金により、後世に残すべきとの世論の声もあるが、町長が「解体」と決定している事もあり、早期復興へと市街地整備を進めてほしい。
昨年11月初旬には「東日本大震災犠牲者 南三陸町防災庁舎慰霊祭」が南三陸町役場跡地でおこなわれ、多くの町民も、遂に防災庁舎が解体されると確信した慰霊祭の開催だった。
大震災で亡くなられた町民・職員や、偶然来町され被災された家族そして関係者など、350人を超える方々が、防災庁舎慰霊の祭壇に真白な菊を献花した。町職員も大部分が参列し起立したままで慰霊祭に臨んだ。
町長は「観測史上最大の震災が起った。この日を境に生活が一変した。」「住民の避難誘導に43名の尊い職員、町民の方々が亡くなられた。」「身をとした活動で町民の命を守った。」「今日までの誇りが生きて、未来への誇りとなるよう、皆さんと頑張っていきましょう」と語った。
杖をつき献花する高齢者の方、家族や母親に手を引かれた子供さんの姿に、多くの方々・報道陣も涙ぐんでいた。多くの南三陸町で亡くなられた遺族の一つの区切りとなった慰霊祭だった。
平成26年を迎えこの問題は今後も長引きそうだ。
2014/1掲載
須藤ほの香さん ローランド・ピアノ東北本選「敢闘賞」受賞
2013年12月1日(日)仙台若林区文化センターで「ローランド・ピアノ・ミュージックフェスティバル2013東北本選大会」が開催され、柳津小3年の須藤ほの香さん(戸倉西戸出身)が小学生部門Aで、東北地区から集まった19名の演奏者の中で、「KIBOU」を16番目に発表し、敢闘賞に輝いた。
3.11の大津波で戸倉西戸の自宅を流出し、現在は津山町の総合体育館仮設で生活している。2011年4月から戸倉小に入学をする矢先の大震災だった。そんな中で続けていた大好きなピアノを、「遠藤ピアノ教室」に通い、練習に励んでの成果が実を結んだ。五日町にあった遠藤ピアノ教室もピアノなどの楽器を全て失い、荒砥の自宅を活用して、遠藤先生からピアノを習いたいとの想いの子供たちを指導している。
須藤ほの香さんは「大変です。練習は厳しいけれど、先生はおもしろい」と話す。普段の会話を通しピアノの指導をする。その結果が東北大会で敢闘賞を受賞した。遠藤先生は「子供たちの頑張りを多くの人たちに伝えたい」と語る。しかし今の環境でのピアノ指導は難しいとも話す。
現在は週1回の練習で2月のコンクールに向け津山町から通い練習を続ける。最後に先生のピアノ演奏とほの香さんの歌で、「かたーい絆におもいを寄せて…」と長渕剛さんの「乾杯」を聴かせてくれた。
2014/1掲載