南三陸町志津川マイタウン誌「千葉総合印刷」 南三陸町マイタウン情報「志津川広報センター」

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専務情報

広島から新一年生に「愛の福袋」が届く

 大震災発生から南三陸町の住民に「愛の福袋」や「掛け声」を仮設生活者に続け、再建が進み新たな支援活動が昨年から始まった。
 震災後に生れ「新一年生」となった子供たちに、入学祝いの品々と共に、絵はがきに言葉を添えた活動が昨年から始まり、2年目を迎えた。広島県や山口県・島根県から、町内5校の小学校に73個のプレゼント(手作りバック)が届いた。

南三陸町「復興祈念公園」一部開園 令和元年12月17日

祈りの丘
「海の軸」
荒島・椿島・神割を結ぶ

「山の軸」
保呂羽山・上山八幡神宮を結ぶ

「祈念の軸」
防災庁舎を結ぶ


「名簿安置の碑」メッセージ
いま、碧き海に祈る
愛するあなたに
安らかなれと
鈴木清美さん

「復興祈念のテラス」メッセージ
小学校1年生だったあの日、この目で見たものは
まだ私の中に鮮明に生き続けている。
どうかこの町が、大好きだったあの日のように
活気と人々の笑顔であふれる町に
なりますように。
西條瑠奈さん

 1分間の黙祷から、南三陸町震災復興祈念公園の「名簿安置の碑」並びに「復興祈念のテラス」の除幕式が、小雨模様の中で開催された。
 佐藤仁町長の式辞では、「平成の時代、最大の災害となりました。」「普通の一日から千年に1度と言う災害を経験し3 2 0 3 日、平坦な道ではなく苦悩の日々がありました。」
「様々な思いが胸に去来する。」「礎は亡くなった方々の元にある。」「町の未来を想像していただきたい。」と語った。
 名簿の安置には、620名の亡くなった方と210名の不明者合計830名がおりますが、遺族の了解が得られた「804人」の犠牲者の名前が記された名簿が納められている。
 三浦清人議会議長は「8年9ヵ月、当時の惨状が脳裏に浮かびます。」「追悼の場を1日も早く、手を合わせる場所をと、遺族の声に応える事ができました。」「全国の支援の方々のご意向に応え、後世に伝えていかなければならない。」と話した。
 感謝状の贈呈では、一般社団法人全国優良石材の会が「津波記憶石プロジェクト」に取り組まれ、名簿安置の碑の整備に関し、石材や加工などを寄贈した。株式会社サンテックは、犠牲者名簿を安置する気密性に優れた収納庫を寄贈してくれた。

「記憶の広場・メモリアルレリーフ」
失われたまちや人々の記憶を風化されることなく後世に伝えるため、東日本大震災発生の志津川地区の地図を石版に刻んだレリーフを園路が交わる公園中心に配置し、記憶の広場とします。

 「名簿安置の碑」への碑文・メッセージは応募作品の中から、南三陸町の鈴木清美さんが選ばれた。挨拶では「南三陸町に生きて63年が経ちました。」碑文の碧は「普通の青ではなく、紺碧(こんぺき)の碧」を使った。「多くの御霊は 私は海にいると思います。」愛するあなたへの思いの中には、たまたま南三陸町に来ていて亡くなった48名の方々もおります。鈴木さんは震災語り部となり、来町してくださる皆様に町の大津波の姿と、防災意識の必要性を語りつないでいる。
 西條瑠奈さんは、「復興祈念のテラス」のメッセージに、これからの南三陸町の未来への希望を綴った。挨拶の中で「この式典に立った時、複雑な気持ちがこみ上げてきます。」と、小学1年生の時に被災し、幼いながらも一歩ずつ再建がされた自分の町の姿を見て、素直な気持ちを述べてくれた。
 旧防災庁舎は、県での20年の所有となり今後どうするかが、町民と議会で議論がなされる。公園内の鉄骨の防災庁舎で、職員など43人が犠牲となり、復興祈念公園の整備のために3年前から立ち入り禁止となっている。今回の「築山」の完成により一部開園となり、被災した防災庁舎の屋上までもが近くで見える状況となった。

「入谷ひころの里そば祭り」入谷「松笠屋敷」にて(11月17日)

 17日入谷地区にある「ひころの里」の駐車場は来場者の車でいっぱいだった。松笠屋敷の手前の蔵づくりの建物では「蕎麦まつり」に合わせ、振る舞いの餅つきと試食コーナーが開催され、多くの来場者で賑わっていた。「何がいいの?」と、世話役の人が優しい言葉を送ってくれる。メディアも取材に来ているようで、山里の日曜は賑やかな雰囲気の中にあった。
 松笠屋敷の中には順番を待つ人で賑わい、地区の御世話人が受付をし、ろばたでは入谷地区の重鎮が子供を連れた家族と語り合う姿があった。
 注文されてからそば粉をこね、そば切りし出来立ての蕎麦を提供している。テーブルでは蕎麦が来るまで隣り合わせた人との会話も、蕎麦まつりの一つの楽しみと隣席の方が教えてくれた。色々な話に待つ間も、蕎麦まつりの素敵な時間を味わった。

七人の侍 来町

 9月14日(土)午前10時から、志津川剣道協会の会長小山光夫七段教士と同じ七段取得の高段者が8名が、志津川中学校の剣道部員10名に剣道の指導をし、合わせて高段者同士の練習風景を見て、打ち込みや技、姿勢、気合いを学んだ。
 練習会を準備した小山先生は、「皆さんの姿を見て学んでください。」と話した。8人を代表して大場七段が参加された先生方を紹介し、「小山会長とは剣を極める剣友として20年の付き合いがある。」と、互いに切磋琢磨する剣道の友達であり、人生の友であると感じた。
 小山会長は、剣友でもある「宮城県警七人の侍と剣の交流」を企画し、現在も指導している志津川中学校剣道部員も、「高段者からの剣道の指導を受ける」ということを目的にこの練習会を計画した。
 「礼に始まり礼に終わる」との剣道の精神のもとで、始めは志中生との稽古をする。2分間の回り稽古では、打ち込み方、竹刀の剣先の位置など、稽古の中で一つひとつ丁寧に指導をした。その後は、先生方の練習風景を目を丸くして見入っていた。
 道場からは、「ヤー」「メン」「ドー」と気勢の張った気合いが、生徒を剣道の魅力へと引き込んでいた。

南三陸町の干潟生物研究者に現状と課題を聴く

 「南三陸海岸の『いま』を見つめよう」と題された「干潟のセミナー」が志津川高校を会場に、6月8日(土)午後5時から開催された。主催は南三陸町自然環境活用センターで、協力として志津川高等学校があたった。
 講演1の講師として、金谷弦博士(国立環境研究所)が、「干潟すごいぞベントス(底生生物)すごいぞ」。講演2として講師、鈴木孝男博士(みちのくベントス研究所)は「津波で被災した志津川湾の干潟とそこに暮らすベントスの現状と課題」と題し、2人のベントス(底生生物)の研究者は、南三陸町の志津川湾の干潟は貴重な環境である事と、守って行く必要性を、集まった50名前後の皆さんに話しかけた。志津川高校の自然科学部の生徒たちも真剣に聴き入っていた。



志津川「松原干潟」は貴重

 講演の中で、今回の松原干潟の環境調査の結果も発表された。
 鈴木孝男博士の講演では、「松原干潟の導流堤(川と海の水の交換)」の工事を早くしてもらいたいと話す。伊里前の干潟も生物が住む場所の整備をと言い、県には少しずつ環境に配慮して整備をとも語る。多岐にわたりベントス(底生生物)の貴重なラムサール認定の志津川湾の干潟の事を教えてくれた。
 調査では2017〜2018年に90種類の生物が見つかり、その中には絶滅危惧種がいた。そして今回で100種にもなった。戸倉海岸は水が2つに分れ、松原干潟より生物があまり住まないと話す。松原干潟は絶滅危惧種が13%も生息し、多様性の高いレッドリスト種の生物が多い。
 河川水の契水地に色々な生物が生き、パイプ3本で海水が河川に入れるように、水生生物が住めるように、と早急な導流堤工事をと言う。
 防潮堤や、河川堤防の土壌改良材はアルカリで、河川水と海水の交わりがなくなる工事と語る。講師は、「順応性の環境を維持し、自然のままに環境を保全する事で、幼生が戻ってくる。」と話す。
 女川町は80cm も地盤沈下したが、今は少しずつ干潟が戻ってきている。松原は貴重な干潟で戸倉折立や伊里前とは違う。その場所を高校生が真剣に調査に取り組み、今後も継続していって欲しいと述べた。

宮城みちのく巡礼33カ所4番札所に細浦徳性寺

 安女宝山徳性寺住職辻文生さんから、大震災からの寺の復興、現在の話しを聴いた。多くの先祖から引き継いだ品々の流出の中で、偶然にも貴重な徳性寺の歴史を伝える町の文化財的な仏具が残ったと話す。
 徳性寺の本堂・庫裡も高台にあったが、16mにも達する細浦地区への津波の襲来で、本堂は崩壊し庫裡は2階まで浸水したが、修復し檀家の仏事に当たっている。
 山門は倒壊を免れ、4基の板碑と教育委員会の「細浦板碑群」の説明看板は残っている。
 震災後は、墓地の入口に観音像を建立し、動物の慰霊碑も整備した。また、被災地の寺を巡る
「巡礼」で、亡くなられた皆さんの供養も計画している。本堂は高台の墓地脇の仮本堂で、葬儀・回忌法要をおこない檀家の供養にあたっている。今後は本堂の再建を目指し、取り組んでいると語る。


南三陸町の小学校1年生に広島から愛の福袋届く

 震災後から南三陸町の明神崎荘さんを拠点として、石巻・気仙沼・高田に支援を続けている。国連NGO世界平和女性連合・広島第1連合が、南三陸町の5校の小学校一年生71人に、ノート等の学用品をつめた入学祝いの品を届けてくれた。昨年から震災後に南三陸町に生まれた小学校一年生への「愛の福袋活動」の第2弾としての活動として始めた。(受皿支援・千葉印刷)

「結婚は義務と責任」

第4回宮城県有識者セミナー 2018

 南三陸町に石巻からボランティアに来ている方から案内をもらい、11月23日に矢本東市民センターで開催されたセミナー「結婚・家庭の再生が日本を救う4」に参加した。
 講師は小笠原員利氏で、NPO活動などを通して青少年を対象とした教育事業に携わっている。
今回の第4弾は「家庭ビジョン」として、LGBT「人権」運動にひそむ問題点について講話を聴いた。
 現在の男女の性は、「男」「女」だけでなく同性婚合法化や、多様な性に対する教育の必要性を話していた。
 小笠原氏は、結婚は男女が基本であり、「義務と責任」は家庭をつくる事、そして子供をつくる事と語る。
 「恋愛」「結婚」は同じではない。結婚は子供の福祉と社会の安定のための制度であり。●貞操・相互援助(義務)、●長期的安定した夫婦・親子関係をつくる(目的)、●相続・税の優遇がある。反して「恋愛・同棲」は個人の私的な結びつきである。●結ばれるも別れるも自由、干渉されない・特別な行政上の保護・優遇もない。
 大人が一人の家庭は、●子供の貧困率が50%以上、●ひとり親・再婚・事実婚家庭では虐待発生率が約4倍(米国)●2017年、厚生労働省は親元で暮らせない子供の社会的養護を施設中心から、里親中心に転換、とし「多様な家庭」で混乱、苦しむのは子供!と語る。
 結婚カウンセラーの話に、男女の違い(男らしさ、女らしさ)を教えないことで、逆に夫婦関係が難しくなっている。男性の特性、女性の特性をお互いによく理解することで、関係が円滑になり互いに補い合う調和な関係が生まれる、と述べている。
 来年度から南三陸町では「結婚活動」の事業を本格的に推進する。町づくりには欠かせない部分で、宮城県の産業や経済にも人口の減少は大きな問題となっている。3年連続で県人口がマイナスとなり、昨年より「0.38%」の人口減少となった。その中で南三陸町は8番目(−1.76%)で、1番は七ヶ宿町の3.83%だった。増加の自治体は大衡村の1.4%増で、2番目に仙台市の0.21%だった。
 非婚化・晩婚化の進む現状は、日本の人口減少・少子高齢化社会は決して看破できないと小笠原先生は話していた。

南三陸町に笑顔を届けに

〈歌津伊里前公営住宅集会所公演〉
 16日午後4時に到着予定の「飯島マジック倶楽部」の皆さんの到着が遅れていた。会場に観客を待たせる事の心配は的中してしまった。長野から10時間掛けの来町は、走行中にも色々な問題もあり、本当にご苦労様でした。
 5名のマジッククラブの方の公演に、14人の団地の皆さんが集まってくれ、マジックでは切った紙がそばに変わり、その試食を「おいしい、おいしい」と食べてくれた。会員の軽妙なトークとマジックに皆さんの笑顔が広がった。伊里前公営住宅では、自治会長さんの親切な準備活動により、無事に1日目を終える事ができた。

〈志津川東団地西工区の「結の里」にて志津川公演〉
 17日午前10時からの二日目の「飯島マジック」の公演は、社協の皆さんの支援と協力により開催する事ができた。
 当日はマジックショーの皆さんを、語り部活動をしている鈴木さんにお願いした。さんさん商店街のモアイ像の前で待ち合わせ、防災庁舎に手を合わせられる場所を案内していただいた。その後は支え合いモール「結の里」でのマジックショーには、東団地の災害公営の皆さん、そしてチラシを見た町民の方々、30名を超える人たちが集まってくれ、楽しんで頂いた。
 17日は午前8時に宿を出発し、役場・病院・福祉施設「結の里」と、防災庁舎の慰霊、さんさん商店街での食事と買い物を予定していた。
 今回は、歌津公演・志津川公演を開催し、合計50人を超える町民の皆さんに、マジックを楽しんで頂いた。そこには多くの笑顔が広がっていた。(社協さんへ信州みそを寄贈した。)

《飯島マジック倶楽部のこれまでの活動とメンバー紹介》
 宮澤会長御夫婦、80歳の林さん、伊藤さん、前町長の高坂さんの5名の会員の皆さんと引率の竹澤町会議員、10時間の道のりを、長野県飯島町から来町頂き、1泊2日の弾丸ツアーだった。今回で3回目の公演で、前回までの公演では戸中仮設・平成の森仮設・志中仮設・登米市南方仮設を廻り野菜の物資と共に交流を深めた。
 これまでも宮澤会長さんは、6年間13回自分が育て作ったじゃがいも・ネギの物資支援を南三陸町の被災者へ届ける活動を続けてくれた。
 飯島マジッククラブの皆さんの、これまでの活動に感謝申し上げます。

長野県原村の小林さんとの交流


 元役場職員の小林さんは南三陸町支援で繋がりが生まれた。自分の村を紹介する本を自費出版し、当社に寄贈頂いた。お返しは「志津川のマダコ」で、こんどは原村の特産品「八ヶ岳生とうもろこし」を送ってくれた。この間はテレビの「旅サラダ」で紹介され、原村のブランド品だった。生でも食べられ、絶品の味だった。



 

多くの南三陸町への支援者との交流会

震災から7年と5ヵ月が過ぎ、多くの団体・個人の受け皿として弊社は支援を続けてきました。
 宿泊は町内の民宿を活用し交流会を持ちました。民宿の色とりどりの品数の料理に来町した皆さんの驚きの一声で始まり、御馳走と大きな船盛りにお酒も話も盛り上がりの交流会でした。 
 今回の交流会は長野県飯島町にご招待を受けた沼倉さんも参加してくれ、挨拶と乾杯はほどほどに、友がまた来てくれた事を祝った。また、南三陸町一の「語り部」の遠藤さんを招き、当時を思い出し涙ぐみながら、30分間の話では災害と被災者の苦悩はまだ終わっていない事を説明してくれ、御馳走のお箸とお酒も止まった。
 遅れて交流会を始めたため、夜9時を回っても店主のご理解の元、互いの親睦を深めあった。「また来てください」とは、これまでの心温かい活動の8年目も、そろそろ南三陸町の町民への支援からの、住民の自立の時期となったと感じた。

震災後に生れた子供たちへの支援
南三陸町の教育関係者との交流会

6月9日袖浜・明神崎荘にて
「南三陸町で家族が元の暮らしに戻るまで」と、広島出身の奥さんの頑張る姿に、何かお手伝いをと「世界平和女性連合広島」の活動から始まった。今回の「広島からの愛の福袋」の活動の内容は、被災地の現状と、これからの被災地の後継者育成について、教育関係者の皆さんとの意見交換交流会だった。「物資の支援から、心の支援を!」や、「南三陸町の子供たちの活動が多く実を結んでいる」、「全国・世界からの支援で何とか子供たちの活動をしているが、被災地の活動には資金面の支援が必要」など、現実的に何をして欲しいか、何が必要なのかを現場の意見の聞き取りと交流会を開催した。2時間の予定は1時間近くも超過となった。今回は9名の皆さんが来町した。

 「愛の福袋活動」の女性から、南三陸町の 子供たちへと、詩と歌が紹介された。

「とびら」   詩、曲 川嶋あい
見上げた空に雲が流れて今日という日がまた始まるよ
変わらないもの 変わりゆくもの 心の中で見つめてきたね
強がることには慣れてきたけど本当の自分さらけだせなくて
負けないように恥じないように 僕にもできること探してゆこう
うれしい時も悲しい時にも 流す涙がほら明日へとつながるよ
人の優しさ 人の笑顔に これまでずっと支えられてきた
自分にもっと自信を持って生きてゆくことは難しいけれど
今度は誰かのもとへ僕がそう形を変えて何か贈れたら
目立たなくても派手ではなくても 欲張りはしないでただひたすらに
僕が信じる夢を描いて いつかその先には幸せがありますように
タイムリミットどこにもないよ 疲れた時は立ち止まればいい
どんなに高い壁もいつの日か 新たな道へ向かう扉に変えてゆこう
悔まぬようにさびないように 毎日に想いを注ぎ込もうよ
上手に生きてゆくことよりも 生かされてきたこと忘れずに歩きたい
少しずつ未来へと

来町された広島・山口・島根の皆さんは学校関係者も多く、被災地で感じた事や思いを、残す事無く発表する会となった。地元の教育関係者は、スポーツ少年指導や教員など、今回は4名の出席を得て13人の会となった。震災後の自分の置かれた状況での、被災した町と子供たちの係わりを話した。あの日から「生き方、考え方が変わった。」が、参加された4人にはあった。
 こうした皆さんの話からも、震災復興の取り組む形を再認識した。参加の方々も「震災風化」「町の再構築」の難しさを新たにした。しかし、前を向いて進むしかなく、まして新しい命の誕生の可能性を託し、震災復興の完遂に努力して行くしかない。
 今年の「愛の福袋活動」は、2月に女性連合の皆さんが、「広島からの千羽鶴」があり、志津川低地部の「慰霊塔」に供えられた。また、気仙沼鹿折フットボールの子供たち・父兄会との交流会も行った。

東大阪支部との交流会
高知県への移動総会に同行して

宮城県印工組の気仙沼・南三陸支部と、大阪府印工組東大阪支部との友好支部の締結から5年目を迎えた。被災地「南三陸町」への支援は「町商店からの商品購買」と「町内民宿活用」などがあり、さんさん商店街ではお土産・キラキラ丼を楽しんでもらった。そして今年は節目の7年目ということで、東日本大震災追悼祈念式典にも大阪から4名が出席した。
 南三陸支部からは、大震災からの再建状況や、これまでの出会いから支援・交流の感謝の恩返しの意味を込めて、自然災害発生時の心がまえなど、これまでの報告の講演会を引き受け話した。22 名の参加者の前では、現在の働く印刷業の環境は生きる為の糧であり、継続は厳しいが必ず身を助けてくれる。そして災害で一番大切な事は「命を守る事」だと伝えた。 
 高知県黒潮町を通過し「桂浜」「坂本龍馬像」への観光途中で、ガイドさんから話があった。「黒潮町には東南海トラフ地震による津波は、34mの襲来が予想される。昨年、国内最高の避難ビル「22m」が建設され、周辺地域の約200名の住民の命を救うために建設された。20m以上の避難ビルは建設できないと言われる中で、「6億2千万円」で整備された。」と説明をした。高知観光は町の今後の町づくりに役立てる為と、観光気分は薄かった。坂本龍馬像のある「桂浜」、そして高知市内の高知城や、板垣退助像など歴史を感じさせる観光発信があった。四国のお遍路は48 番札所のお寺をお参りし、静かな祈りの観光地がここにはあった。今年は高知県で全国印刷文化展が開催される。
 気仙沼漁港にも入港する「明神丸」の母港でもあり、「カツオのわら焼き」の刺身は絶品の味だった。まだ午後4時前というのに、屋内には多くの大小の商店が並ぶフードコートがあり、観光客と地元の人たちで賑わっていた。
 今後は支部同志、肩肘張らない交流をしていければと、堅い握手で高知空港を離れた。

猫の島 石巻市田代島の「猫神社」の旅

「海洋・海華復興の会」の発足から8年目を迎えた。
「大震災の復興は宮城の海から」、「松島での世界海洋博覧会を」と、大きな夢の目標に向かい活動している。
 現在進めているのが「田代島・島起こし」で、大学教授の先生方や、大企業の社長さん達も参加し、「島起こし隊」を結成した。石巻市にも協力を呼び掛け、県会議員・市議会議員にも理解を得て、被災地「石巻市・田代島」の、過疎の島の再開発を夢見る。5月4日は石巻の「網地島ライン」の観光船で、雨の中を田代島「仁斗田港」に向かった。船には波の高い中を多くの観光客が乗り込んだ。その他にも臨時便がありながらも、総ての船は満員状態だった。テレビでも放送され、国内に留まらず外国からの観光客もある「猫の島」が、こんなにも人を引き付ける魅力を理解できなかった。私の見た猫の数と、島民の数は感じたままでは「猫」が多かった。雨なので島民も猫も午前中は見当たらなかった。
 観光船は9時出発で定期便に特別便とも200人〜250人が乗り込み、島の人口は10倍に以上にもなると言う。行きは波浪で55分、午後は天気に恵まれ45分の船旅だった。
 猫の魅力は島を歩き感じた。目的地は「大泊」だが、港が震災復旧工事中で、車で1分の「仁斗田港」が唯一の受け入れ港だった。帰りは「猫神社」を見ての帰路のはずだったが、一つ道を間違えた。出港は2時12分で、港から30分と言う神社まで、また坂道を歩いた。既に1時間は歩いて足も痛いが、ここまで来たので乗り越して次の便でも良いとの考えで、神社までの坂で猫たちをカメラに収めながら港から進んだ。20分歩いた坂道でさすがに足のマメがつぶれ参ってしまった。その時、可愛い猫の鳴き声、草むらから一匹の猫が出て来た。「ホッとさせ癒された。」、その瞬間「これなんだと。」と実感した。
 石巻市「田代島」に、こんなにも多くの家族連れ、多くのカップル、外国人観光客が猫島の離島を訪れる理由はこれだと感じた。SNSの力がこんなにも大きく、人は癒しを求め働き生活をしていた。田代島島起こし隊の拠点は、大泊の「古民家猫カフェ」で、カレーセットと自然の森のコーヒーで「おもてなし」してくれる。一緒に行った隊員2人は泊まり込み、連休の観光客のお世話をする。

菅原さん(大工)と真道さん(のこぎり職人)の交流

原村リフレッシュ事業での出会い

2011年の大震災の年に長野県原村(当時清水澄村長)が、東日本大震災の被災者支援という事で、原村では「リフレッシュ事業」として南三陸町の被災者の方に、心と体を癒してもらう事業をおこなった。この事業で原村を訪れた菅原清晴さん(70)、交流会の席上で父親の愛用していた「のこぎり」の制作者が、原村の真道さんの制作だった事がわかった。そして今回9月20〜22日の2泊3日で、志津川地区の「民宿明神崎荘」さんと歌津地区の「コクボ荘」さんを会場に、原村を訪れた両地区の皆さんと交流を深めた。席上で真道さんは、自分の制作したのこぎり30本を、被災者の住宅再建に活用して下さいと菅原さんに贈った。菅原さんも最近自宅の再建を終えたばかりと話していた。
 来町されたのは、前原村清水村長(現社協会長)と、前農林課長の小林さん、リフレッシュ事業で何度も南三陸町を訪れ支援してくれた樋口さん、そして今回の「のこぎり」寄贈にあたり真道さん一行が来町した。2011年〜2015年の原村の「リフレッシュ事業」も終えたが、現在も南三陸町と原村の交流は引き続きおこなわれていて、来年5月にはお世話になったお返しにと、歌津地区8名の方が原村へ行く事を約束した。訪問した4人は佐藤町長への面会と、新南三陸庁舎、南三陸病院の見学も実現した。

「上の山の八幡さまの稚児参り」

 9月14日の宵宮祭から始まった「上山八幡宮」の秋まつりが3日間開催され、17日の日曜は「稚児参り」が午前10時から開催され、家族連れの来年1年入学の子供達が、綺麗に着飾り嬉しい子供達の笑顔が満開だった。祖父母も晴れの孫の節目の慶事に家族と共に、レンズを透して参加してきた。この町の将来の安泰をこの子たちにお願いする。

宮澤大造さんのジャガイモ支援

2012年から6年目の長野の野菜支援に感謝 

 今年も7月末に長野県飯島町の宮澤さんからの心を込め作ったジャガイモが被災地の皆様へと10 袋が届いた。南三陸町の災害公営住宅、戸建ても3月末には総て完成し、住宅再建の土地造成も各地域で次々と造成が完了し、住宅建設が急ピッチで進んでいる中で、未だ仮設での生活をしている方もいる。今回は志津川地区東工区の集合住宅の皆さんにチラシを配布し集まってもらった。

《第1回目配布8月4日》
「人が集まってくれるかな?」の不安の中、南三陸病院向かいの志津川東団地「災害公営住宅」では、ジャガイモ配布の午後1時半を前に、会場としたA・B 棟の間の駐車場には、既に10名の方が待っていてくれた。3袋のジャガイモは全て1時半を待たずになくなり、社に戻り3袋を再度持って来た。2時には6袋が全て無くなった。災害公営の皆さんに喜んでもらい、弊社社長も本浜・大森など昔の志津川の人達との会話に話しがはずんでいた。支援の受け皿で、自分も本当に幸せな気持にさせて頂いた。この団地の災害公営住宅には現在志津川地区に住んでいた方が自治会長をし、両棟の副自治会長さんが顔を見せてくれた。知っている方で「ジャガイモを送ってくれた方を教えて下さい。」と、宮澤さんにお礼状を出しますと、話していた。

《第2回目配布8月31日》
東団地E・F棟のじゃがいもの物資配布にも集合住宅の3名以上の住民の皆さんが集まって頂き、喜んでくれました。南三陸町の被災者の方で、被災して初めて物資貰いましたなど、皆さんから感謝されました。本当に被災7年目にもなるのに感謝いまします、と話す。住民の皆さんに変わり御礼を申し上げます。午後1時半からの配布でしたが、1時には待っている方もあり、時間を待たず配布終了となりました。時間前に終了したことで、「配布は」と社に連絡が入り、丁寧にお詫びしました。また、物資が来た時に配布を致しますと伝えました。貰う人達の笑顔に、私は今後も活動の受皿を継続していきたいと思います。


三陸新報 戦後70年



千葉賢一作品集「遺稿集発刊に寄せて」



河北新報で千葉総合印刷取締役社長 千葉賢二郎 掲載される


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