南三陸町志津川マイタウン誌「千葉総合印刷」 南三陸町マイタウン情報「志津川広報センター」

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過去の専務情報(1)

長野県飯島町の宮澤さんから今年もジャガイモの支援

 今年も長野県飯島町から「大地の恵み」が南三陸町に届いた。宮澤さん御夫婦が長野で出会った友人の竹澤さんの土地を借りて、現在も農業をしている。「天国の楽園」がここにはあり、初夏のじゃがいも秋のネギと手作りの野菜支援も6年目を迎える。
 震災後に飯島町の議員さんが町に来て、被災地の調査を歌津の「泊崎荘」で行い、南三陸町の現状を伝えた。その中の一人だった竹澤さんとの出会いがあり、あれからこれまで被災地「南三陸町」の支援を、仲間と続けてくれている。昨年は、町民数名が招待された「飯島町御柱祭り」では、飯島町の地域の人達と交流があり、共に絆を深めあった。
 今回も写真のようなジャガイモ袋が10 袋届いた。限られた物資なので、どのように町民の方に配ろうかと思っている。新鮮な獲れたてのジャガイモを一日も早く、美味しいうちに食べて貰いたい。もう少し待ってほしい。
 南三陸町からは何をお返しにと尋ねると、「昨年頂いた『志津川タコ』が美味しかったです」と言う。今年も同じものを送ろうと思っている。秋にはまたネギを送りますと電話で話していた。     (支援受け皿 千葉印刷)

長野県飯島町の宮澤さん・竹澤さん、じゃがいもの物資配布に集合住宅の30名以上の住民の皆さんが集まって頂き、喜んでくれました。南三陸町の被災者の方で、被災して初めて物資貰いましたなど、皆さんから感謝されました。本当に被災7年目にもなるのに感謝いまします。住民の皆さんに変わり御礼を申し上げます。

「愛の福袋活動の歩み」

 団体は大震災による南三陸町で被災した志津川袖浜の佐々木さんの広島への一次避難にあたり、南三陸町の震災を広島県を中心に、中国地方・九州地区の福岡県など周辺の会員と共に、その震災の現状を佐々木さんと講演して被災地支援を訴えた。
 また、一方では佐々木さんの家業の民宿の再建に支援を続け、民宿を拠点として南三陸町や石巻市・陸前高田市などの、仮設で生活する女性を訪問し、物資や声掛けなど「愛の福袋」として、被災地女性に寄り添う活動を続けた。震災直後からの支援があり、2015年にはバスで関東以南から30名以上の会員が集まり、被災地「南三陸町」を視察し支援活動をした。南三陸町に点在する仮設を廻り、一軒一軒の被災者への物資を詰めた「愛の福袋」を、被災者の声を聴きながら寄り添い活動をおこなった。福袋の中身は各々の地区から、被災地に送る物資として集めた物を、季節に合った物を袋に詰め、メッセージと共に配る活動です。その他に仮設の女性達との交流を深め、今後の支援に何が必要か交流を深め、被災者に何が必要なのかを聞き取った。
 また、福祉施設「のぞみ作業所」の訪問や、「戸倉小学校」の児童には、富山県のチューリップの球根や、広島県の小学校からのメッセージを届けた。「あさひ幼稚園」でも園児や先生にも愛の福袋を手渡した。「志津川中学校仮設」では、オペラ歌手の生の歌声で元気を与え、福袋と物資を手渡した。
来るたびに南三陸町の海産品の「わかめ」などを大量に購入し、販促に協力した。被災地の水産業の体験では、生産者と共にワカメの芯抜き等の、ボランティア活動もおこなった。今年で6年余りとなり、一つの区切りとして、今後の支援をどうするか模索している。団体は今後も南三陸町に来町し、観光支援・購買支援など続けて行くと話している。
                       (受け皿 千葉印刷 千葉伸孝)

5月25日 節目の南三陸町訪問

 震災から7年目を迎え南三陸町の住民再建も進み、これまでの国連NGO「世界平和女性連合」の活動についての報告を、最知副町長さんに伝えた。
 今回は、回っていない南三陸町外の仮設に「愛の福袋」を届けた。南方仮設は、1期2期合わせて当初は350世帯が暮らしていたが、今は50世帯余りとなった。在宅の方々10世帯に配ることができた。次に、横山駅裏仮設に寄ってみたが、多くの仮設が空き室となっていた。
 この日も、真新しい「さんさん商店街」に寄り、今が旬の「うに丼」に舌鼓を打ち、全ての商店に4人で来店し、南三陸町の商店の復興を実感していた。今回は3泊4日で、周辺の被災地も視察した。

愛の福袋支援の感謝を伝えに

 3月22日に東京で開催された世界平和女性連合の「第25回全国役員総会懇親会」にご招待を受け、これまでの南三陸町の「愛の福袋支援」の被災者への仮設声掛け活動に対する御礼を伝えに参加してきた。
 世界各国の大使の皆さんも、これまでの母国への支援の感謝の為に、来賓として出席されていた。来賓者の紹介の各国大使の国は、アフガニスタン・コカタリカ・ハイチ・ジャマイカ等、25カ国の名前があがった。そんな国へ女性の人権や子供達の教育環境の充実と、支援の物資を届けた話を聴く事で「皆さんと一緒です!」とのメッセージを伝えている。
 私のテーブルの隣りの広島の山下さんは、南三陸町に支援で「世界平和女性連合」の会員の方を、全国の支部から約20名の皆さんを、震災の翌年に石巻・南三陸町・陸前高田まで、マイクロバスの運転手として来町された。
 心に残った言葉に、「貧困撲滅に日本の女性が世界で活躍している。」「私たちには愛があります。真の愛があります。」、この言葉は人と人を繋ぐ原点であると私は思います。真実の支援は見返りを求めない事にある。招待された私たちは、全国から集まった南三陸町へ来てくれた皆さんに、感謝の言葉を伝えた。素晴らしい再会と活動・支援に感謝の懇親会だった。

きらりと輝く志高生!

 東日本大震災から6年目を迎えようとする3月1日、志津川高校の卒業生83名( 男子42名・女子41名) が、想い出多き学び舎を巣立った。平成28年度の卒業証書授与式では、情報ビジネス科第19回生の22人を代表して、佐藤大輔君が第672号の証書を授与され、普通科第69回生61名を代表して、4組の阿部菜月さんが、第9244号となり、今年度までに9265名の卒業生を、無事に送り出すことができ、1万名の卒業生をめざし今後の隆盛を願いたい。
 山内校長の式辞では、野球部・陸上部・郷土芸能愛好会など、全国的にも高い評価を受け、苦難の道を地域の皆さんと共に歩んできた。「感謝の心を親に伝えて欲しい。」「南三陸町は世界に誇れる防災都市建設へと突き進んでいる。」境遇を選ぶ事は出来ないが、生き方を学ぶ事ができる。助け合いながら希望に満ちた人生を生きるのが、「志津川高校魂」と結んだ。震災直後からの生徒の希望だった、「志津川高校前停留所」が3月から設置される事も、伝えられた。

友好支部会員との気仙沼交流会

 前日の福島県から引き続き、22日は大阪府印刷工業組合の東大阪支部一行と、気仙沼市の予約が取れないと言われる、名店「福よし」さんで交流会を開催した。東大阪からの8名と気仙沼市と南三陸町から5名が出席し、13人でこれまでの東大阪支部さんの7回にも及ぶ、被災地への観光支援活動に対し、3時間と言う予定を遥かにオーバーし、親睦を深めた。
「福よし」さんでの究極の一品は「吉次( きんき)」の焼き物だった。南三陸町に現在住み、以前の町の志津川町で育っていても、初めての大物吉次の焼き物に驚き、堪能した。これぞ水産業の街気仙沼の、一匹5千円の新吉次焼きを味わった。強烈な炭火で「プロの職人」が目を離す事なく、真剣勝負の神髄の焼き物を食べた。「美味い!」の一言に尽きる。
 気仙沼・南三陸支部と東大坂支部の友好支部協定締結から3年目を迎え、大坂から7回の来町と、被災地「南三陸町」での宿泊と南三陸産品購入を続けてくれている。
 最終日は、南三陸町の海産物店「かね久」さんで買い物をし、防災庁舎と大川小への献花用の花も町内の花屋「サトー園芸」さんで購入した。毎回来町時には「未希の家」さんにも寄り、仏前にお土産と焼香をさせてもらっている。その後は歌津地区の民宿「コクボ荘」さんで昼食をとった。立ち寄る店の御主人からは、南三陸町の復興の状況を聴き、「まだまだ商店街と住民の心の復興は先ですね。」と話す。
 遠くの友との再会と新しい仲間との出会い、そして会話は自分の肥しであり、被災地「南三陸町」の復興支援となっている事を確信する。
今後とも末永い交流活動は、南三陸町の「復興の礎」である事を信じ、対応できるまで続けていきたい。

今秋も長野県飯島町から宮澤さんの『ネギ』が届く!

 今回から仮設から復興住宅に移った、被災した町民の方に一軒ずつ回りネギを配布した。
その他に多くの町民が働く事業所へ届けた。
 丁度、復興住宅を廻った時に、被災者支援の団体が、集会所でコンサートを開催していた。終わるのを待ち自宅へ帰る皆さんに、5〜8 本を新聞紙に包んで、一人ひとりに手渡した。「香り良いね。」「こんなにも沢山。」「りっぱなネギだごだ。」など、感謝の言葉を頂いた。
 事業所は歌津・志津川を廻り、牡蠣の作業所にも「愛の福袋」と共に届けた。長野県飯島町の宮澤さんからは、季節のジャガイモとネギの物資支援があり、今年で5年目10回を迎えた。

広島を中心とした南三陸町への「愛の福袋」節目によせて

「愛の福袋」活動、3度目の「のぞみ作業所」訪問

 
 南三陸町への「愛の福袋」の被災者支援活動が、11月16日に一日掛けての活動となり、町内の3カ所に「愛の福袋」と「オぺラ」を届けに来てくれた。
 今回は広島県をはじめとした山口県・石川県・静岡県、そして被災地の支援で知り合った石巻の阿部さん御夫婦も、活動に同行しての活動となった。初めに恒例となった「のぞみ作業所」の作業活動の見学からで、通所生の皆さんも3度目となる訪問に、顔なじみになり笑顔で迎えてくれた。10時の作業スタートで、まだ準備中の作業所だったが、突然の来所にも関わらずテキパキと作業の場所に付いた。
 畠山施設長さんから、のぞみ作業所の資料のフートーが渡され、フートーには通所生の描いた絵が散りばめられていた。朝の多忙の中で畠山さんに説明を受け、作業風景を見学した。
のぞみの皆さんへの「愛の福袋」の配布には、一人ひとりにメンバーが声を掛け寄り添い手渡した。指導員の方々にも福袋が渡されると、恐縮した様子の笑顔で喜んでいただいた。石巻の阿部さんも手作りの品を皆に持って来てくれて、「私も被災者です。共に頑張りましょう。」のメッセージが込められていた。
 今回はプロのオペラ歌手である味香友子さんも広島から同行され、被災地にオペラの歌声を届けてくれた。
作業所での絵葉書のデザインを見て、「ペチカ」を披露してくれた。「雪の降る夜は楽しいペチカ……」と、澄み渡る声が作業所に響渡った。通所生のみんなも初めての体験か、最初は驚きの顔を見せていた。二曲目はオペラの代表曲の「蝶々夫人」で、その声に「こんな近くで生のオペラの歌、素晴らしい」の一言に尽きた。三曲目に何を歌いましょうか? の味香さんは「ふるさと」を選び、みんなで合唱した。通所生のみんなは味香さんの声に反応し、声を上げたり手を伸ばしたりする。その男性の手をそっと握ってくれた味香さん、「何かを感じてくれたんですね。」と、微笑み話してくれた。鋭い感性を持っていると通所生に感じた。一生懸命に自分の仕事をする姿に「愛の福袋」の皆さんも元気をもらったようだ。

震災後に生まれた園児に触れた事に、私は大感激だった。この子らの為にも大人が頑張らないで、誰が頑張れるだろう。
南三陸町の皆さんと一緒に!

被災後に生まれた園児との出会い感激にひたる

 11時からは11月1日に開園した「あさひ幼稚園」を訪問させていただいた。幼稚園では学芸会の練習や、施設の開始にあたり訪問客など、その対応に追われる日々と、園の先生は話し、そんな中で「愛の福袋」の活動を受け入れてくれた。大きな建物だなと遠くから見てはいるものの、内部の施設も全てが木造で電気もモダンな雰囲気を醸しだし、総ての木造は優しさ温かささえ感じる。この立派な木材は園長先生のお寺の、山門にあった樹齢300 年前後の杉が被災にあい、その木を利用し幼稚園建設にあてたと言う事は、町民皆が知るところである。園が所在する東浜団地の隣りに、幾度かの移転を繰り返しながら落ち着いた。
 「愛の福袋」の支援活動は園の皆さんに、山口県の美味しい「みかん」と「サツマイモ」と、富山県の「チューリップ」を届けた。また、園児のみんなには、みかんのドレッシング・さつまいもなどの入った袋をプレゼントとして、一人ひとりに、会員のみなさんが配り、子供達の喜びの声が部屋に広がった。「さつまいも大好き!」とプレゼントの福袋に喜び、震災後に生まれた子供達に会えた事が嬉しいと、訪れた7人の「愛の福袋」の支援者は話す。
また、昨年訪れた「戸倉小学校」にも、同等のみかんとサツマイモが贈られた。校長先生も快く受けてくれましたと、支援の輪が広がっている。
 同行されたオペラ歌手の味香友子さんの、ピアノの弾く音色の中で、プレゼントを子供達はもらい、サプライズで「365 日の紙飛行機」を歌うと、園児もいっしょに先生に合わせ合唱した。忙しい園の生活の中で突然のこの機会を与えてくれた事に、「あさひ幼稚園」さんに感謝を致します。
 こんな最適な環境で、町民が見守る地域で、元気に素直に子供達が成長し、新しい南三陸町の町づくりの担い手になって欲しいと、子ども達への期待を、会員の皆さんは話してくれた。


志津川中仮設の皆さんに本格的なオペラのプレゼント!

 今回の最大の活動には、被災地「南三陸町」の皆さんに、本物のオペラの歌声を伝えようとの活動だった。
味香さんは広島でも3.11の被災地の支媛コンサートを、「愛の福袋」の活動に賛同され続けていた。「一人でも被災地の皆さんを歌で励ましたい」との気持ちが、今回の会場とした志中集会所でも伝わってきた。会場には25 名を超える皆さんが集まり、山下代表の挨拶に始まり、参加された5名が紹介され、味香さんのオペラコンサートが始まった。
 最初に本格的な歌の「乾杯の歌( サルートス)」が披露された。会場の皆さんに歌の最後に「サルートス」と叫んで下さい、のお願いに、仮設の皆さんが一緒に叫んでくれた。その後に皆で「もみじ」を歌った。海外の戦下の女性の支援で中東の砂漠をジープで走った話の後に、「月の砂漠」を皆さんのキイに合わせ合唱した。次に悪い事をした人が改心をした歌として「アメージング・グレース」の、オペラの力を感じさせる曲に、観客の驚きの声が聴かれた。
 その後に「愛の福袋」の配布があり、色とりどりシヨールを全員にプレゼントし、冬に向かう必需品などを入れた袋を配った。その他にも「ランチョンマット」や「レインコート」も数少ないが希望者に配り、ジャンケンで勝った方にはバックをプレゼントし、会場が二番目に盛り上がった。志中仮設にはこれまでで3回の福袋の配布となった。佐々木自治会長と味香さんの掛け合いの会話にも、会場が多くの笑いで包まれた。「これで終わりです」の言葉に、佐々木さんの掛け声で「アンコール」の拍手がまき起こった。突然の要望に何も準備してなく、「何がイイですか」の問いに、「上を向いて歩こう」の歌を選曲した。この会にピッタリの歌で、集まった皆さんも良く知っていて、全員で合唱をした。私はこの場所に同席できた喜びと、「この支援の姿を町の皆さんに伝えないと」と思った。今回が最後の来町と話す、「愛の福袋」にありがとうございますの言葉を送った。
 最後は皆さんを南三陸町の象徴となった、防災庁舎の特設の祭壇に案内し手を合わせた。

東日本大震災復興プロジェクト
NPO 法人「石巻・田代島しまおこし隊」

「9・29発会記念に参加して」


 人口が現在は36人で、繁栄した時代は1300人が住んでおり、マグロが定置網で獲れ、遠洋漁業の拠点として漁業会社が沢山あり、島民も多くが漁船に乗り成功している。現在は島を離れて暮らしているが、島の場所土地は決して売らないと言う。平成元年まで島には小中学校があったが廃校した。石巻市田代島までは、石巻港の網地島ラインが島への交通手段で、船で1時間余りの離島です。
 「猫神社」があり海外から猫の島としてメディアでも取り上げられている。今は人の数より猫が多く、その島の魅力に外国人も訪れている。インバウンドを求める国の政策で、こうした観光地のこれからの盛り上がりを、石巻市も考えている。しかし震災復興が先のようで、島の観光振興の団体として、NPO法人「石巻・田代島しまおこし隊」が参入した。隊長は町起こしを全国で展開する、早稲田大卒の猪狩建雄先生があたっている。人間的にも優しい素晴らしい人格で、先生をしたう仲間たちと共に、新たな島づくりを考想する。
 島の重鎮だった尾形さんが、島の歴史を話してくれた。震災では門脇で家が流され妻を亡くした。「石巻焼きそば」の震災後の復興に参加し、「海華の会」の会員との出逢いから、今回の活動が始まった。尾形さんは話す、多くの団体が島おこしに来たがお金が尽きて、みんな島を去って行った。だからこそ発会式では島おこし隊へ「最後までやって!」と、大きな期待をしている。
尾形さんは昔から島に伝わる「田代島獅子保存会」の会長を務め、島の伝統を継承しようと、島に来る方々と田代島獅子踊の復活を願っている。


 今後は空家活用の宿泊地を造り、レストランや漁業体験、カヤックや子ども達のウッドハウスなど、多くのメニューを準備している。猪狩隊長の仲間には、隈研吾氏と同じ建築設計者の堀内先生がおり、インドネシアでの竹づくりの家を紹介し、多くの島おこしのポケットを持っている。設計会社の社長や造園家の方が顔を並べ、そのスタッフや支援者が全国から70名が集まった。その母体の会社は福島県出身で、造船・レストランなどで、アメリカンドリームを達成し、パラグアイの世界で一番の貧困の国の発展にも参画している。素晴らしい仲間の一員となり、共に新しい人達との出会いで、島おこし隊がスタートし、5年を目途に整備を進める。
 現在は、一緒に島おこし隊として参加してくれるボランティアや会員を募集している。詳細については当社の方へ連絡下さい。                                      (TEL46-3069)

南三陸町のお出かけ支援と地域づくり懇談会に参加して

8月29日ポータルセンター

 南三陸町の今後を考えた場合、ますますの人口減少と高齢化が進む中で、外出が困難な方が増加すれば、買い物や通院したくても、できない町になるかもしれません。
みなさんの「お出かけ」をどのように支えていくことができるのか、みんなで知恵を出しあう懇談会だった。
 開催団体は特定非営利活動法人ワーカーズコープ南三陸事業所の川名所長が、これまでの南三陸町の活動報告と、どういった事が町民に必要かを伝えた。また、先進地として牡鹿半島たすけあいの会「寄らいん牡鹿」の活動を紹介してくれた。
 南三陸事業所の活動には無償運送(実責のみの利用者負担)で、基本として1k100円を想定していた。利用者の声には①年金生活なのでタクシーは使えない ②町民バスが有料化され、バス停でしか止まらない ③病院から退院したが通院の手段がない ④親戚や近所の人だとかえって気を遣う ⑤足が悪い等を話す。
 今後の方向性として、ボランティアで継続するのは経営的にも厳しく、公に活動できる住民参加型の支えあいの仕組みが必要で、福祉関係者の方からも強い要望がある。

広島から愛の福袋支援5年目

 南三陸病院への台湾の支援は全国の人達に伝わっていた。広島からの「愛の福袋」の活動は、国内だけでなく全国に仲間がおり、機関誌には「台湾からの南三陸町への支援活動」が紹介されていた。今回は5名の方々と福袋を届ける前に、台湾交流記念碑を訪れた。熊本大地震の発生により今回は分散となったが、全国への被災者支援を続けている。

 3回目のぞみ作業所への訪問は、通所生も覚えていてくれて、笑顔で迎えてくれ「こんにちは!」とみんなが答え、作業に取り組んでいた。震災から福祉施設「のぞみ作業所」への全国からの再建支援があり、現在は「紙スキ」の技術・機材の開発支援で、多くのデザイナーと企画者や、購買への協力など、多くの「愛」に包まれた作業所と変貌した。震災からの独自の本格事業へと、通所生・職員が一丸となり一生縣命な姿が伺えた。通所生の状況を踏まえ、それぞれの作業に取り組んでいる。今年も「のぞみ」さんへの愛の福袋と商品購入支援を実施した。

 のぞみ作業所のモアイの図柄のタオルや、人気の各種「絵はがき」は独自の紙スキと絵柄が好評です。

「ラフター(笑)ヨガ」に参加して

NPO 法人 ハッピーライフ
NPO 法人 みらい東北(内藤)
写真は「ハスの花」の笑いヨガのポーズです。神奈川から被災地への支援の活動と言うことで、スタッフ6名と、志津川・歌津仮設生活者にも声を掛け、気仙沼市本吉町小泉の「公民館」を会場に、30名の参加で、みんなで笑いヨガで体を動をした。「笑い」を取り入れ、声を出し、身体を動かし、頭を使い笑う「ラフターヨガ」を、体験した。
 写真撮影と取材で参加したが、皆さんのラフターヨガから笑顔が自然と生まれた。掛け声は「ホッホー・ホホホ」「ヤッター・ヤッター・ヤッター・イェイ!」「ハ・ハ・ハ!」と、スタッフの笑顔での指導で、参加者も「笑いヨガ」の世界に浸っていった。
 「グ・チョキ・パー」を使ったヨガは、互いに向かい合い特別なじゃんけんで勝った方は、手を上にして声を出し笑い、負けた方はしゃがむ。体の動きと呼吸と頭の運動があり、身体の動きだけでなく頭を使う事が、被災者で未だに仮設で暮らす高齢者には、健康に良いとのヨガ活動だった。
 町の高齢者は仮設や施設で大きな笑いと運動は無く、生活に密接する笑い・集まり運動と共にゲーム的なヨガは、仮設で6年目を迎える高齢者には、絶対必要な事を証明してくれた。写真のハスの花のようになる頃は、互いに皆が手を繋ぎ笑いながら体を動かす事が、生活には必要な事を証明してくれた。1時間が経ち、皆が休憩する「お茶の時間」も準備してくれた。
 5月28日午前10時本吉町小泉での教室は、中間に休憩の時間を取り入れ2時間、みんなで体を動かし、声を出し笑い、集まる事が、被災地に必要との活動である。

婚活事業始動(平成28年4月〜)

 

婚活事業詳細はこちら>

気仙沼市「婚活セミナー」in本吉


 気仙沼市主体の「婚活セミナー」が開催された。会場は本吉の公民館で、会場には40名の独身者
や家族が集まり熱心に、佐藤律子講師の話しに聞き入り、質問なども多く30分もオーバーした講演会だった。
 仙台初のレストランウエディング事業や、結婚情報誌、婚活出会いパーティーなどを企画し、これまで1千組の出会いを実現し、結婚まで人と人を結びつけてきた。キーワードは「45歳」と言う。30歳前後は結婚の希望は以外とかなうが、45歳は男女とも結婚実現の境にあるという。「相手への希望を一つにしなさい」「死ぬ気で婚活しなさい」と語り、男性には「清潔感と身なりが必要」で、女性は「かわいく・綺麗になる事に努めなさい」と語る。
講演の始まりは「どの時代に生きて来たのか」を知る事と言う。その世代で結婚観や家庭の状況、結婚に対する考え方が違い、それを分かっていないと独身者も、家族も結婚のゴールは出来ないと言う。両親の生活にその理想を描き、子どもの結婚に対する考えが違うと言う。両親が仲良く子どもの為に楽しく生活していると、子ども達も早く両親のような結婚と子どもがほしくなると言う。逆に苦労ばかりで楽しい家庭でなかった両親夫婦を見て、父のように、母のようになりたくないと、結婚への強い意織や願望が無く、婚活しての異性に対する求めも、過剰になると結婚はなかなか出来ないと言う。
 相手を求める前に自分を知り、自分の意識を変え磨く。普段の生活も自分で生きる道を築き、親は自分の老後や跡継ぎに子どもをたよらない。
ここを理解し婚活する事で、45歳を過ぎる男女に結婚の道が開けると言う。

明神崎荘音楽の夕べ

 夜6時からの「音楽の夕べ」は心休まるひと時だった。広島で活躍するシンガーソングライターの「森本ケンタ」さんと、国内に2個しかないクラヴィオーラの演奏者「折重由美子」さんの、ミニコンサートに魅了された。震災後に被災地への「足長おにいさんブロジェクト」を続け、南三陸町の小中学校や福祉施設・イベント会場で、被災地の人たちに音楽で寄り添った。全国を回り募金活動もしていて、継続する事の大切さを「阪神大震災」で体験し、5年目を迎える活動も「これからも続けて行く」と力強く話してくれた。
 「感謝をこめて 素敵な音楽と美味しい食事を!」
 WFWP(国連NGO世界女性連合)広島支部の、東日本大震災の被災地への「愛の福袋」を届ける支援活動を始め5年目を迎えた。多くの方々のご協力により、ここまで続けることが出来たと話す。支援の拠点として南三陸町袖浜の民宿明神崎荘様の奥様が広島出身だったのでお世話になり、復興の現状や避難生活者の実態などを教わりました。
 明神崎荘様が再建1周年を迎えるにあたり、ご協力頂いた皆様に日頃の感謝の気持ちを「音楽の夕べ」と題し、おもてなしの場に招待をした。石巻市・気仙沼市や、南三陸町の仮設で暮らし交流を持った皆さん、ボランティアで町の復興に取り組む方や、明神崎荘さんの再建を支援する方が集まった。

井上わこの「盲導犬キャンペーン」戸倉小へチョコをプレゼント

 広島の「愛の福袋」の被災地の住民に寄り添う支援活動で、大震災で多くの苦難を乗り越えた戸倉小学校への福袋支援と、山口県の小学校の交流を取り持つ活動が去年あった。団体の一人の会員がお世話役として、今回は卒業生に井上わこ「盲導犬キャンペーン」のチョコレートを贈った。南三陸町での受け皿に、袖浜の「明神崎荘」佐々木さんの奥さん(広島出身)がなり、その役目を果たす事となった。
 戸倉小学校は震災後に3度も学校が替わり、今年の卒業生は全壊した戸倉小学校から、震災後新しく新築された戸倉小学校まで、4つの学校を点々として来た。当時一年生だった。こんな小学生は多くの被災自治体の学校でもないだろう。3月の卒業式のお祝いのチョコレートとなった。

広島市 南三陸町明神崎荘被災地支援活動 磯崎英明様から

今回、盲目の艶歌歌手である井上わこさんの「盲導犬キャンペーン」の活動があり、これまで23頭の盲導犬を失明した方々に寄贈しています。
不慮の事故で明かりを失い、東日本大震災の数日後に亡くなった井上わこさんは、「被災地を元気づけたい!」と話していた。姉の意を継ぎ妹の赤崎帯子さんが、広島市の磯崎さんの南三陸町での戸倉小学校との交流を聞き、「盲導犬キャンペーン」のチョコレートを贈りたいと、南三陸町と交流関係の明神崎荘の佐々木珠美さん(広島出身)にその思いを託し、今回のチョコレートを戸倉小学校の卒業に合わせ寄贈をするものです。

南三陸町 明神崎荘  佐々木昌則さんへ

「愛の福袋」被災地支援活動

愛の福袋

  2011 年3月11 日の東日本大震災でに南三陸町民が広島への避難疎開し、それが広島の新聞に掲載され、報道で知った地域の方の応援の輪が大きくなり、南三陸町への支援活動へとつながった。

 今回で3回目と聞く、岩手県大船渡まで活動範囲を広げ、南三陸町を拠点として2班に分かれ有効に時間を活用し、被災された皆さんの仮設を訪れ、「愛の福袋」を届けた。今回配る福袋は300 個を越え、中身は多くの企業の協力と個人の皆さんから集めたものを、色々と袋に入れ、その中には被災者への心温かいメッセージが添えられていた。

 「父母の愛によって生まれ、愛によって育てられ、愛によって生き、愛を残していく、 それが人生の最高の目的です。一日も早い復興を願っています。応援しています。」山口県の森さんが言葉をつづってくれていた。

 17 日から2泊3日の予定の今回の支援には、広島を中心に山口・福岡・静岡など24 名の方々が来町してくれた。民生委員の方もおられ被災地の子供たちの事を心配し、「何かできないか」と聞き取り、地元の活動につなげたい
と話す。数班に離れての来町のため集まる時間もばらばらで、第一陣は「さんさん商店街のモアイ像の前」の待ち合わせとした。

 17 日は一日中活動予定で、午前中は志津川・歌津地区の2班に分かれ、仮設を一軒ずつ「ボランティアで来ました」と声を掛けて、2人1組で福袋を手に持って歩く。留守の仮設も多く、午前中とあり留守番のおばあさん方が多かった。傘を差しながら、10 分、15 分と被災し仮設で暮らす人たちの声に、話に耳を傾けていた。「お体は大丈夫ですか?」の声に気丈にも「多くの皆さんの支援に助けられています。」と、普段は訪れる来客も少ない中で、支援の方々との話しもついつい長くなっていた。

 午前中の視察として「のぞみ福祉作業所」を廻った。約20名の入所者が分担し、作業に励んでいた。畠山施設長さんの話に、全国の福祉作業所の支援をもらい、活動指導支援として1週間ごとに全国から再開の準備の応援をいただいたと言う。

 現在は作業活動の主体となる「紙すき」のポストカードやモアイの印刷の紙製品の制作に一生懸命だった。牛乳パックを再利用する紙すきは、全国から送ってもらい周囲のシールをはがし破砕し特殊な液体で溶かし、紙すきをしてプレス、乾燥、シール、印刷などで製品に仕上げていた。『パークのシールはがしは「コツ」がいるんですよ』と作業の指導員は話す。また、制作する機材も全国から支援・機械造りに応援をもらったという。訪れた支援の方々は作業をする通所生一人一人に寄り添い話す姿に、支援活動代表はこれが私たちの活動ですと語る。販路拡大が課題と話す。

 午後からは戸倉地区の二つの仮設を廻った後で、新築再建された戸倉小学校を児童が下校した後で訪れ、木造造りの多くの機能を配備した学校校舎・体育館施設を見学させていただいた。図書館に於いては、支援者のお子さんが通う「下関市立垢田小学校」の5・6年生34 人から、「同じ小学生を応援したい」と、メッセージ写真と手紙が贈られた。また、富山県のメンバーからは「チューリップの球根」が山内校長先生に、山口県の田中さんから手渡された。生徒全員にも「愛の福袋」を準備し、学業の慌ただしい活動の中で、「何かのお役に立てて下さい」と言葉を添え贈られた。

 夕食後の午後7時からは、民宿「明神崎荘」を会場に、志津川・歌津の仮設で暮らす5人の方々と、班に別れて話し合いの場を持った。生活で困っている事や何か出来る事があればと聞き取り、今後の支援に何が求められているかを話し合った。

 「愛の福袋支援活動」は、今後も末永い支援と家族のような繋がりを持ち、「故郷に家庭に帰って来る」との想いを、復興後も家族のような御付き合いで、「寄り添い・見守りたい」が、会の考えと山下代表は話してくれた。( 支援者支援の会 千葉)

仮設の方々への支援の声掛け
のぞみ作業所での入所生との交流
富山の方よりチューリップの球根寄贈
下関市立垢田小学校5・6年生のメッセージを戸倉小へ



「継業」

 これからの商店経営の難しさは、後継者がいない、大店舗の郊外出店など、これまでの商店街経営は疲弊の一途を辿っている。高齢化による事業は新しい経営体系に変更する事も出来ず、ただ、経営の困窮へ進み、やむなく閉店を余儀なくされている。

 何代も続く先祖からの経営も限界がある。こんな状況下で他人に総ての経営を委ねる取り組みが「継業」だ。今まで携わった事の無い仕事を経営者として事業展開してもらう。何も知らない人間が入り、今まで続けて来た事業をするが、これまでの積み重ねた経営とノウハウを素人ができる訳も無く、少し離れて見守り、自分の店の将来を任せて行く。これまでの収入が半分以下になっても、先祖代々の店を名前を残す事を望み、他人に引き継がせる新たな形でもある。

 静岡市のある商店主が「継業」を決断した。10 年で商店街の50 軒が廃業した。迫りくる老いと経営不振があり、新たな形と商工会議所と一緒に取り組んだ。娘が3人いるものの婿を取る事もできなく、店主ひとりで長い事悩んだあげくの決断だ。親族・従業員の壁を越え二人の経営が始まった。あまり口を出すと角が立ち、早く理解して上手に事業ができるように、遠くで見ながらつい強い口で指導する。なにも知らない初めての事業主としての仕事に、新たな提案で取り組むも、販売する物の性質も知らないままでの、販売の形に「それは違う」と大きな声を出す。互いの努力が空回りした瞬間である。まだ途上であり互いに模索しながら、商売を一緒にする。このままで経営交代となった時に、互いの当時の言葉の意味と重さを痛感するだろう。「継続」しない事には求める方向も、家業の継続の達成もできない。70 歳の店主と42 歳の女性新米店主の挑戦は今後も続いていて行く。

 商工会議所も閉店した店舗の利用活用を考え、空店舗を「5 万8 千円」で貸し出す事業を展開する。何処の商店街も取り組む空き店舗の活用事業対策だ。

 経営者は「自分の代で店をたたみたくない」がある。私もその一人であるが、その問題はまだまだ深い溝をはらんでいる。今の若者の挑戦は余りにも堅実過ぎて、目先の収入を求め将来への投資としての修業なんて考える若い人間は少ない。私も「継業を希望する若い挑戦者を探す」、この活動は廃業するまで続けて行きたい。今は店名と経営者の違う事業所は多くなっていると言う。

被災地への「支援の環」が更なる交流へ

千葉印刷の震災復興支援

 2011.3.11の大震災から、被災地の現状をブログで発信し続け4年半を迎えた。23年7月から戸倉荒町で仮営業を始め、震災2年1ヵ月で志津川地区の商工団地内に会社を縮小し、新たな環境で営業を再開した。

 南三陸町への全国からの支援や、講演活動も多くの依頼により沢山の団体と交流が生まれた。京都の大学の募金活動の地元団体への中仲や、「南三陸町からの手紙プロジェクト」の参加は、会社にとっての被災後の会社の仕事として明るい希望の光となり、現在も被災地支援の風化はあるものの、大震災の恐さと大災害に対する考え方や生き方の「防災教本」として今も、少しの需要を維持している。

 長野県飯島町のマジッククラブや大阪府印刷工業組合東大阪支部の南三陸町への物資の提供や仮設慰問があり、それが観光支援とつながり、町の商品購入は町の商店の活性化を生んでいる。3年以上も続く支援の輪は人と人が互いの名産品を贈り合う関係を作り出し、関係団体のイベント商品には「南三陸町の贈り物」として喜ばれた。

 我が社の活動は大きな形として目には表れないものの、更なる人とのつながりへとなった事が最近わかった。南三陸町志津川出身の須藤さんが会社のブログから情報を収集し、東大阪印組支部さんに支援の御礼状を送っていた。「こんな手紙が組合にきました。」と手渡されたのが掲載の葉書きです。偶然にも我が社の社長の友人の大森の須藤さんの息子さんということがわかった。「今、シンガポールの会社に勤務しています。」との話しだった。

 その後に長野県飯島町の宮澤さんが、仮設の皆さんにとジャガイモの物資を送ってくれた折りに、「シンガポールから絵はがきが届きました。」と聴かされた。そして「南三陸町の方へ飯島町の採りたての野菜を送りました。」と話され、今度は南三陸町から蒸しホヤが贈られてきましたと、ほのぼのとした交流話を聞いた。

 私と会社の活動のつながりが南三陸の住民の新たなつながりの絆が生まれ、これからの南三陸町の復旧復興の架け橋となり、新しい町づくりの輪が広がっていく。一人一人の活動が小さいながらも、その数を増す事で町の再建が将来に向い確かなものに形づくられていく。会社の目標に「町の再建に寄与する」と、今後の活動を明記している。

大阪府印刷組合東大阪支部3度目の来町

 宮城県印刷組合の仙台での「機材展」に合せ、ピーチ航空を利用し今年も3名の社長さんが東大阪から来町した。

 常宿として歌津のコクボ荘への宿泊と、奥さんとの会話、海の幸の料理を楽しみに来てくれた。今回は本吉・気仙沼支部から3社の参加を得て「交流会」を催す事もできた。

 観光支援旅行とて、「霊峰田束山」に登り、歌津地区の駅裏高台にできた「慰霊の丘」の慰霊碑に手を合わせた。先月の24日には観音様も丘に建立され、伊里前商店街からも場所がはっきり判る状況となった。そして「未希の家」「防災庁舎」にも手を合わせ、南三陸町からのお土産は「南三陸の銀鮭」を10本も関西近隣の知人達に送った。東大阪のお客様も「ブランド銀ザケは美味しい」と太鼓判を押してくれた。「また来ます」との言葉と支援・交流を今後も続けていくと言ってくれた。

100kのじゃがいも長野県飯島町から届く

 震災二年目の平成24年から始まった長野県飯島町の宮澤さんからの初夏の農産品が届いた。4年間に及ぶ初夏のジャガイモと晩秋の長ネギの物資支援が続いている。

 今回は初夏の10K入りのジャガイモ10袋が届き、歌津・入谷・志津川・登米市の仮設4カ所に配布をした。全ての仮設自治会長さんは「仮設の皆さんに1コのジャガイモでも嬉しいとの声を聴きます」と感謝の声と言葉をいただいた。

 仮設生活者は地区の防集移転が進んではいるものの、未だに被災して、仮設暮らしを強いられている仮設生活者は7割もいる。

仮設訪問ボランティア「愛の福袋」来町

 「旧民宿向」さんが大震災大津波で流出し、家族で広島に避難を余儀なくされた。「民宿明神崎荘」として新たな再出発を、袖浜地区の高台への再オープンする支援を、広島在住のNPO法人さんがしてくれた。そのNPO法人さんが団体で、南三陸町の袖浜民宿「明神崎荘」の支援に、中国地方から北九州・関東など「WFWP 東日本被災地支援」で30名余りが来てくれ、23日・24日の日程で仮設訪問などのボランティア活動を行い、被災地視察として気仙沼・陸前高田を廻る「愛の福袋」活動を実施した。

 代表の山下さんとの打ち合わせで、大津波の被害状況よりも会員の皆さんには被災地の「つながり」「絆」の維持に何が必要かを話して下さいと言われた。無理をせず末長い見守りとしての来町をお願いした。物心的な支援から人と人の交流がこれからは大切です、と伝えた。

 「また来ます」との握手に、皆さんの温もりが嬉しかった。

来町者への支援

 東京都以南の被災者支援団体「愛の福袋」の皆さんに、「いま被災地で何が必要なのか?」を教えて下さい。こんな要望があり民宿で25分間話す機会をもらった。被災の厳しい現状ではなく、何が私たちにできるのか知りたいと言う。ある意味「震災風化」をこんな所からも感じる。遠くは福岡からお出でになり、3日目は気仙沼と陸前高田に行くと言う。多くのお母さんたちで家庭の防災対策にお役に立てればと思う。

「糸はしっかり繋がりました」。

長野県原村と南三陸町(荒砥・袖浜)の交流会

大震災直後から4年間の支援

 今回の南三陸町ボランティアセンター閉所にあたり、長野県原村から清水村長さん、農林商工観光課小林課長をはじめ5名が「感謝の集い」への参加のために来町した。14日の前日は新しくオープンした袖浜の民宿明神崎荘を会場に、原村の方々とお世話になった荒砥・袖浜の皆さんによる総勢15名余りの交流会が開催された。

 原村と南三陸町をつないだのは、医療支援でおいでになった医師団の先生と保健福祉課の声掛による出会いと、受け入れから始まった。震災後の2ヶ月頃、荒砥小学校体育館に入り、地域の支援と町の被災がれき等の跡かたずけのボランティアに、小林課長さんはじめ5名の方々が支援に訪れた。

支援の輪の交流継続!
 小林観光課長さんは、体育館で共に生活させてもらい、避難所自治会役員だった高橋源一さんの「一緒に食べましょう」との大変な中での気遣いに、心打たれたと話す。また、物資の配布があり、おばあさんがペットボトル4本を持って帰るのは大変と、自宅まで届ける途中で「ここが役場の未希さんの家です。」と教えてもらい、訪ねて行くとお父さんが心よく応えていただき、ご焼香もさせていただいた。多くの町民皆様が家をなくし、家族の不幸があっても支援に来られた方々への心温かい対応に頭が下がったと話す。
 長野県原村からは2人の自治体派遣があり、1人の方は遺跡の発掘支援に参加された。原村の清水村長さんは、「何もできませんけれども」と話し、南三陸町の袖浜の民宿のごちそうを「美味しいものがたくさんありますね」と町の旬の味を喜んでいた。
 震災の23年に8回、以降毎年2回で計14回長野県原村に被災された地域民の心を癒しにと、南三陸町民を招待した。村でマイクロバスをチャーターし、宿泊をしてもらい体を休めてもらった。その数は延べ200名を超えた。荒砥地区から袖浜地区そして歌津へと範囲を広げ、被災地「南三陸町」の住民支援を続け、今後も南三陸町民皆様と支援交流をしていくと話す。
 袖浜地区の原村でお世話になった方や、荒砥地区の方々も加わり、当時の大混乱での原村の活動への感謝の言葉が、来町された清水村長さん、 小林課長さんへ向けられ、会場となった民宿で時間のゆるす限り共に語りあった。
(原村は長野県の中央に位置し、43.1㎢の面積で人口は約7600名、世帯数は2600余りの街です)


大阪府東大阪市の印刷支部(42社)と宮城県本吉・気仙沼支部(6社)の「友好支部締結式」
26年10月8日南三陸町印刷会社2社

 印刷工業組合の東大阪支部と本吉・気仙沼支部の全国で初めての「友好支部締結式」が、南三陸町歌津「コクボ荘」を会場に開催された。
 この繋がりのキッカケは、25年7月に東大阪の支部総会を、「被災地応援隊」として気仙沼市で開催した。当支部も招待され参加し、被災地の現状を伝え、「東北がんばれ! がんばれ気仙沼!」と大阪府東大阪支部で義援金を募り、見舞金・仕事支援・観光支援を実施した。



 東大阪支部は南三陸町に2度来町し、支部へのイベントの商品全部を南三陸町から購入し、宿泊も町内の民宿を利用し、来町するたびに遠藤未希さんの家を訪れ、防災庁舎に焼香と献花を欠かさない。当支部は被災後2社が退会し6社となり、南三陸町は2社(佐藤印刷・千葉印刷)との支援交流から、南三陸町の「観光・商店」支援・交流へとつながりを広げている。
震災から多くの人命や財産が奪われた、その中でまたこうした人と人との出会いや、助け合いの心が、全国の国民間で芽生えた事は、被災から得られた素晴らしい財産として、末永い交流が被災住民には必要です。

東大阪支部(大阪府)と本吉・気仙沼支部(宮城県)との「友好支部締結」

大阪府印刷工業組合60周年の記念大会に、我が「南三陸町」の本吉・気仙沼支部が「友好支部」として東大阪支部様の、ご招待を受け1泊2日で参加をし、支援のお祝いの恩返しと、「南三陸町の印刷業者は町の為に頑張っています」と、記念式典に集まった同業者様と来賓の皆々様に伝えた。多くのご支援ご協力を頂いた応援は、被災され今も仮設で暮らす方々、震災復興に貢献・尽力している方に、その一部を義援金として、明日手渡す。大阪府の同業の皆様からの温かい支援と、応援の暖かい手の温もりを感じ、また、明日から頑張ろうと言う気持ちにさせていただいた。

2日目は大阪・京都の素晴らしい観光地を見学させてもらい、英知と癒しを貰ってきた事を伝えたい。東大阪支部の永谷支部長さん、そして、中村さん・石川さん御夫婦と、東大阪支部の会員の皆様ありがとうございます。大阪府印刷組合吉田理事長さまの心遣いと、多くのご支援に感謝をここで申し上げたい。


友好支部として大阪府印刷工業組合の60周年記念式典に参加して
5月22日ホテルニューオオタニ大阪
感謝の気持ちに南三陸産ワカメが大好評

大阪府印刷工業組合60周年記念式典・祝賀会が、ホテルニューオオタニ大阪で開催され、会場には組合員・来賓・関連企業など400名が集まった。

「友好支部締結」をして頂いた、「東大阪支部」は46社が加盟する組織で、宮城県本吉・気仙沼支部は6社加盟の小さい支部、東日本大震災の被災地支援で、地元同業者支援に留まらず、被災地の宿泊や買い物を、来町の度に支援し、東大阪支部のイベントでは、南三陸町の商店販売の品々を、景品として支部会員に配った。

永谷支部長さんの支援の熱意には、アイデアも含め頭の下がる思いだ。そして、今回は被災地支援として大阪印刷工業組合の吉田理事長から、これまでの功績と活動貢献に感謝状が贈られた。

祝賀会では400名の参加者を前に、大阪の有名司会者が「南三陸町の方々が来られています。皆さんのご支援をお願いします。」と、会の途中で紹介してくれた。

少しは被災地「南三陸町」を大阪の人達に伝えられた。大阪府印刷工業組合東大阪支部、そして、永谷支部長さんと会員の皆さんに重ねて御支援に感謝・感謝の二日間だった。

ホテル観洋『真奈尚子コンサート』

― 南三陸町コール潮騒と交流 ―

 18日の真奈尚子コンサートはホテル観洋の「クラブ竜宮」で開催され、シャンソン・タンゴ・歌謡曲の融合した、しっとりとした癒しの溢れる歌に、集まった80名余りの観客が引き込まれていった。

「あなたゆえ」「はなさない」「愛の背中」など、自分が選曲した歌を10分間で一気に歌いあげた。次に竹久夢二生誕120周年記念、松竹映画「およう」の主題歌「離さないで」(よいまち草バージョン)を熱唱した。映画には女優としても出演している。鮮やかな紫色のドレスに身を包み、「クラブで歌っているよう」と会場の雰囲気を言い、シャンソン歌謡曲的な歌声に観客は釘づけとなった。

4曲目を歌い終え時、「NHKのコンサートに立っているようで緊張して、歌詞間違えちゃった。」と、会場の笑いを誘っていた。


[ 戸倉中仮設応援コンサート]

 「あざみの歌」で一曲目から、戸倉仮設の60名余りの観客を魅了した。歌と会話の「真奈尚子南三陸応援コンサート」を、「老人介護施設ハイムメアーズ」に引き続き「戸倉中仮設」で開催し、来場の皆さんは「真奈尚子」の優しさに触れた。

 彼女の環境と苦悩が被災地の皆さんとよく似ている。お寺の娘のとして生まれ、姉妹は女3人で、二人の姉を亡くし、17年前に母も亡くした。仮設で集まってくれた母親と同じ年代の女性に、「大変でしたね」「辛かったでしょう」と、互いの苦境に似たものがあり、その気持ちを理解していた。真奈さんのお母さんの好きだった「ここに幸あり」を、仮設の皆さんと共に最後に歌い、互いに涙が溢れた会場は温かさに包まれた。

7月14・15日 2年目となる長野県「飯島町マジック」
仮設で笑顔の交流

 被災地の仮設生活者支援に、物資の支援が2年続き、3年目から物資とひと時の癒しと、マジッククラブの皆さんの交流支援をおこなったなった。仮設集会所からは笑いと拍手と会話での交流があった。

 戸倉中仮設には30分遅れの開催ながら、皆さんは不平も言わず待っていてくれた。

 物資・歌謡・交流などはあるが「マジック」は無いと言う。子供たちが、不思議な目の前の手品に、一心不乱に見つめる姿に、受け皿として来町者支援の意義を感じる。

 昨日は夕方に南三陸町に到着し「未希の家」への4人の宿泊を案内し、時間が遅くれたにも関わらず、おばあさんが震災当時の荒砥の津波の事を教えてくれた。8人の「焼香」のお願いを快く受け入れてくれた。翌日、「未希の家」では宿泊した長野からの4人にハッピを着てもらい新装の宿前で記念写真に応じてくれた。その後で「防災庁舎」に線香を手向け、2日目の志中のマジックショーに臨んだ。集会所には35名余りが集まり、自治会長さんの気配りにより盛会にマジックショー終えた。

 終了後には皆さんとの記念写真となり、集まった全ての人がフレームに入り笑顔で答えてくれた。少しの憩いのひととき

となり、癒し安らぎの時になった。

 お昼はさんさん商店街で、キラキラ丼の「うに丼」に舌鼓、お土産もここで買い求めた。ここから入谷を通り「三陸道」に乗り、一路長野県への帰路に付いた。無事に9時間30分の安着を祈った。

◆南三陸町から愛と死と希望を見つめて



ブログネーム:トゥルー・ブルー・ハート http://nobu6399.blog118.fc2.com
・南三陸町の風景から ・南三陸町の子ども達の活動から ・南三陸町の行政に思う ・南三陸町の動向から
・南三陸町の人間模様から ・南三陸町の友達との活動の中から ・南三陸町の町長さん、議員さん

ブルー・トゥルー・ハートとして自分を見つめ、町を見つめ、人間を見つめ
素晴らしい「我が町」づくりの模索です。町民皆さんと一緒に考えましょう

その他の南三陸町からの発信


南三陸の贈り物 〜 専務事業の再復活 〜
 南三陸町のホタテ、タコ、カキ、秋サケなどの海産品や、のり、ワカメの加工品、登米市の「油麩(ふ)」などを、ご希望により発送いたいします。
「南三陸からの手紙」を添え、被災地支援を兼ねての贈り物です。
「第1弾」
・味のり     1パック

・わかめスナック 2パック

・油麩      1袋
それに「南三陸からの手紙」を含め、
  発送込みで

     3,000円です。


 手紙の売り上げの分は、仮設に住む被災者の支援に充てたり、女性の再建事業資金の一部にもまわっています。

私がお奨めする品を町内の商店より買い求め発送致します。時間がかかるものもありますのでご容赦ください。
 ◆ご連絡先:0226−46−3069◆

◆専務の 新たな復興に向けて

2014/3/11 (3/12記載)

震災から3年を迎えて
 3年目の震災のこの日を迎える。防災庁舎を向かいの対岸から望み「合掌」。ここにはサトークリーニング店さんがあり、議員としてこの店舗を利用し、新たな活動・事業に出向く時、町役場・防災庁舎・第二庁舎を望んでいた事を思い出す。八幡川の流れを見ながら、川の恵みを頂きながら育った。
 国会で被災地への支援が、3.11の前日に議論されていた。「復興が遅い」「福島は何も変わっていない」など、被災地住民が思う事はみな同じだ。
 「復興交付金」の延長が求められている。10年の復興計画の中で街・地域の再生が進められ、10年に渡り復興交付金が事業申請により、認可され被災自治体へ来る物と思っていた。交付金は5年で支給が終わり事業を消化するという。国会で復興交付金の延長をいう。3兆3千億があと7年間で活用される。交付金を自由に使えるように、自治体へ渡し「基金」として積み立て、工事の進捗に合わせ使えるよう制度を変える事が必要という。

 防潮堤の県の工事は土地の買収から工事設計と進む。防潮堤の設計変更は事業の遅れとなる。村井知事は見直しは出来ないと話す。高台移転の意向で「土地取得」が減少の一途を辿っている。土地買い上げも進み、今からの造成地の縮小は出来ない。
 多くの犠牲者を悼み遺族の「家族の死」に、今だに立ち直れない人々の生活をテレビが伝える。「自分はまだ幸せ」と、総てを津波で無くししたが、家族が助かり今生きている事で感じる。
 手を合わせる被災者をメディアのカメラが追っていた。震災を被災地の「風化防止」が今世間で語られるが、南三陸町が全国・世界から忘れられない為にも、報道は大いに必要と思う。

2014/2/3 記載

「海花・東日本大震災復興の会」に参加して
 「海花・東日本復興の会」の二周年大会に行ってきた。発足当時からある知人を介して会に参加している。二年前は東松島市の方や岩手に入ったボランティアの人たちが当時の被災地の現状を報告し、私も南三陸町の現状を伝えた。
 今回の二周年大会は、200名を超える方々のほかに県会議員や市議会議員、そして関係者が20名以上も来賓で出席されていた。
 講演では「閖上朝市」の組合長が立ち、昨年暮れに全国からの支援により再建し、多くの来場者に感謝しかないと話した。カナダよりの突然の1億を超える支援金に驚いたと言い、今後は支援金は「もう大丈夫です」と話し、被災前までのように営業で商売競争に勝っていかなければならないと、通常に戻る事の大切さを話した。震災支援による沿岸の商店街は、すべてが営業不振や閉店に追い込まれている。誰かからの資金支援経営はもう終わりにして、自力で生きていく事の必要性を訴えていた。最後に「とにかく来てください」と話を結んだ。
 「心意気」を被災地の商店主ならず発揮しないといけない時期に来ている。
 県会議員の今野会長が宮城県の震災復興の現状を話してくれた。1時間にも及ぶ話は、震災直後の米国の「友だち作戦」から「自己の体調」「復興報告まで」、延々と聴き続けても飽きる事ない内容だった。
 空母「ロナルド・レーガン」には上陸艇4隻など18隻が搭載され、震災時に東日本震災で活躍した事や、4600人が乗船し1万1千食を毎日作っており、勿論病院等通常の生活ができる全てが整っている。そんな大型船を東松島に固定し、裏戸諸島の周辺を2020年の「海洋博覧会」の場所としてアピールする。そして海の素晴らしさの発信を宮城からしようという構想の話があった。
 また、震災時の救急車不足に「徳洲会」が支援をくれたという。今問題になっている団体ながら、南三陸町にも徳洲会の服に身を包み、医療活動をしていた人たちがいた。徳洲会は被災した地区に救急車18台を支援し、そのうち5台が南三陸町に配備された。海花・東日本大震災復興の会一番不足したのは「酸素マスク」で、津波による海水を飲み込んだせいで、肺が弱まった患者への対処マスクだった。会長は自らが糖尿病であると言い、透析患者は震災地での透析治療ができなく、近隣の市や県に患者が搬送されていた。自分は「腎臓移植」を済ませていたので、免疫抑制剤が無くて大変だったと話していた。
 県の問題として、「医師不足」「人口流出」を第一に上げ、それに対する対策を講じていると話す。県内に医大を一校新設への動き、住宅の早期確保を上げていた。
 来場者に対し、第一声として森副会長が声高に語った「みんなで一緒にやりましょう!」に、多くの元気をもらった会であった。

2014/1/17 記載

本吉郡剣道新春初稽古会
 宮城県は今年最低の寒さを記録した。「-5℃」の最低気温の中で、平成26年本吉郡剣道新春初稽古会が歌津中学校を会場に9時から開催された。
 小学生21人と中学生24人、高校生3人に一般15人を含め63人が、稽古会に参加した。「寒い」と震える子供達も無く、日ごろの指導者との稽古の鍛錬で、剣道の精神の修養の賜物と感じる。体育館には冬の暖かい陽光が練習場に降り注ぎ、元気な気合いの「メーン」「ヤー」と、響き渡っていた。
 初めに郡連剣道協会会長の小野寺先生が挨拶で、本吉・気仙沼の代表となった中学の大会報告をした。歌津中の男子の連勝を阻んだ志中が、「県新人戦でベスト8に入った」と告げ、その他のチーム・個人も輝かしい結果となったと話した。また、「新しい目標に向って取り組んで欲しい」と結んだ。
 小学生低学年・高学年と中学校に分かれ、一般の各剣道協会・スポーツ少年団の指導者が、レベルに合わせて基本を中心に指導をした。打ち込みの打突・左手の使い方、打突の場所を正確に捉える事の大切さを、繰り返し熱心に伝えていた。
 「三年生は今後の高校受験を悔いなく臨んで欲しい」と会長は付け加え話し、今後も剣道を続けて欲しいと語った。
 南三陸町の小・中・高校と剣道人口の減少に協会は頭を痛めている。団体戦のチーム五人を組めないとの、切実な問題が発生している。個人戦でも大会の参加が出来る事が救いだ。年度末前後からスポ少の団員募集があり、4月の中学入学と同時に部活の入部も始まる。志中は戸倉中学校との統合が26今年度からで、新しい部員入部を期待する。
 南三陸町の剣道の伝統は長く、県での大会結果も輝かしい物を残している。「伝統の灯」を消さない為に一人でも多くの入部を望んでいる。

2013/11/1 記載

◎選挙前の19日に東大阪東RCの同業者の方からの依頼があり、東大阪東ロータリークラブの支援に同席致しました。多くの支援団体が来町され道案内役として、また情報発信活動の一端です。心温まる支援に応えることが千葉印刷、そして南三陸町の情報発信者としての義務であり、今後も来町者・被災者を支援します。

平成の森仮設と東大阪東ロータリークラブ 〜車両支援プロジェクト〜

 10月20日、東大阪東ロータリークラブの車輌支援プロジェクトに同行した。平成の森集会所において、車両(軽トラック)の引き渡しと、自治会とクラブの交流に同席し、被災地の当時と現状、そして今回の支援活動について意見交換を行なった。
 東大阪東RCの被災地支援プロジェクトは、軽トラックの3年間のリース契約料(87万円相当)を支援するもので、ドイツハンブルクRCの4台の車両支援も2年半が過ぎ、資金面での継続が困難となっていた。自治会長の「軽トラックは引き続き必要」との希望から、車も老朽化が進んでいるため新古車に切り替え提供された。東大阪東クラブ、地区震災支援金とドイツハンブルグRCも加わり、結果的には3者の共同プロジェクトとなった。
 平成の森仮設の畠山自治会長は218戸515人が仮設に被災者として現在住み、75歳以上が76人もおり、3年前後の再建まで軽トラックはなくてはならないと話す。
 訪問団から「今後も支援して欲しいことはないですか」に、「生活に関しては満たされているが、ハードからソフトへ」と、行政の支援を言う。復興の住宅再建、造成が順調に進み、被災者への生活支援を充実することで、被災者は町の復興計画を安心して仮設で生活ができる。
 東大阪東RCをはじめとする、国内・国外からの多く支援の下で被災地は再生へと向かっている。

◆千葉のぶたか後援会 第4号会報から



◆千葉のぶたか後援会 第3号会報から


三陸新報 戦後70年



千葉賢一作品集「遺稿集発刊に寄せて」



河北新報で千葉総合印刷取締役社長 千葉賢二郎 掲載される


お問合せ先

千葉総合印刷株式会社
TEL:0226−46−3069
FAX:0226−46−3068
〒986-0725
宮城県本吉郡南三陸町志津川字沼田150-84
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