2016年の出来事
伊里前商店街が「ハマーレ歌津」として再々スタート!
多くの地区民が喜びのを胸に「語らいの場」に集まった。
地元商店の再建と地区住民の再びのにぎわいの期待が込められての、再々スタートとなった4月23日(日)の式典には「南三陸まちづくり未来」の三浦会長と佐藤町長と設計をした建築家の隈研吾氏など、住民や関係者ら約400人が集まった。
オープンの式典会場では、地元商工会青年部・歌津婦人会の皆さんが、つきたての餅をふる舞い、海鮮ちゃんこで来場者への「おもてなし」で、楽しんでもらった。
新しい商店街は長屋式2棟の8店舗で、南三陸産の地元の木材をふんだんに利用したぬくもりのある、木造店舗とした。被災した伊里前市街地に5mのかさ上げで、面積は782㎡で再建し開店した。
8店舗は海から見て左側から1店目が、技術と信用の電気屋「ナカノ電気商会」、2店目がおしゃれとギフトでみなさんを元気にと老舗の衣料店「マルエー」があり、こちら側にWC(トイレ)を配置している。3店目が暮らしの必需品いろいろ、南三陸うまいもの取り揃えてます!と「マルタケ商店」、4店目は新しく出店した「食飲笑うたつがね」はうまいもの食って飲んで笑っちゃう店として来場者を迎える。5店目が海辺で飲もうぜ!と「佐藤酒店」の裕さん、テレビにもちょくちょく歌津の紹介などで出演している。
2棟目は左から1店目が、大人気!おつまみバイキングの「丸荒」、2店目は新しく出店したもう1店「心結ぶカフェむすびや」、みなさんの工夫を、待って寄って、みんなで作る楽しい場所として、伊藤さんがコーヒーをどうぞ!と待っている。3店目がファションとフィッシングで毎日を楽しく!と「まきの衣料・大隆丸」、各店の個性を前面に、住民・来町者・ボランティアの交流の場を演出してくれる。
商店街の「ハマーレ」は、地元弁の「はまれ」の仲間に入りなさいと、「マーレ」はイタリヤ語で海を意味する、二つの言葉の造語だという。
歌津の商店街は観光客と地域に暮らす人達と、共にある店を目指していた。伊里前市街地に老舗としてある「マルエー」さんの御主人が、オープンにあたり話していた。震災後は地元を中心に、他から来た人も集まる場所を創りたい!と言う。80万人の人がこれまでの歌津「伊里前福幸商店街」に来てくれて、これまでの80万人の内の22万人の方が「マルエーに来てくれた」、地域の皆さんの生活衣料を中心に、欲しい物があると「高級財布」など、お客様の要望に応え営業を続け、新たな出発となった。
高台へ住居を移したお得意さんは、生活の場所が変わり、昔のように世間話しをする人が居なくなったと言う。レジの前に椅子を置き「語らえる場所」とした。以前と変わらぬ商店の経営が、地区の生まれ変わりにつながる事を祈りたい。と話していた。
さんさん商店街本設オープン
3月3日(金)に志津川地区被災地の嵩上げ地の、旧五日町に出来た「新さんさん商店街」が予定通りオープンし、連日大勢の来客で華やかな船出となっていた。
◎水産加工品店……「海鮮マルセン」「ロイヤルフィッシュ」「ヤマウチ」「及善蒲鉾店」
◎飲食店……「創菜旬魚はしもと」「かいせんどころ梁」「弁慶鮨」「食楽しお彩」「月と昴」
◎お菓子店……「雄新堂」「オーイング菓子工房RYO」「菓房山清」
◎食料品店……「ちばのり店」「フレッシュミート佐利」「阿部茶舗」「ミニストップさんさん商店街」
◎商店……「さりょうスタジオ」「わたや」「NEWS・STAND・SATAKE」「BARBERミヤカワ」「亜べとう整骨院」「フレンズ」「おしゃれ空間Lips」「ヘアーMacana」「デイリー衣料アベロク」「たまや電気商会」「仏壇ギャラリー山形屋クラシコ」
商店街の隣りに移転したBRTの停留所から、「大阪から来ました。」という来場者がいた。志津川の商店街周辺は、整備もまだ終わらない中で、オープン時は周辺は大渋滞となっていた。
震災復興で新たな商店街に、行列ができる商品の復活は、町としても町民も大変喜ばしい事と思う。今後も町と町民の復興と共に、商店街の新しい賑わいで、町の生活が安定し住民の生活が「安定・安心」と向う事が南三陸町民は願いだ。全国からの支援の皆さんも「早期の南三陸町の再建」を祈っている。
2011年の12月に志津川御前下に、35店舗でスタートし、今回2017年3月に「新さんさん商店街」として、市街地の10mの嵩上げ地に本設オープンした、32店舗(うち5店が新出店)。旧商店街では5年間で延べ200万人超の来店となった。
荒砥地区で七回忌法要
2月22日午前10時から、鳥取・島根の浄土真宗本願寺派山陰教区青年僧侶の会「楽法会」による七回忌が営まれた。
会場となった荒砥「全慶寺」の集会所には楽法会の総勢15名の僧侶の皆さんと、荒砥地区民22名が集まり、七回忌の節目の法要に参加した。
はじめに「楽法会」の石橋代表が「荒砥地区にお世話になった方々とご縁がありました。精一杯お勤めをします」と語った。全慶寺役員の高橋さんは「光陰矢の如し」と6年目を振り返った。「心のいやしにはまだなっていないが、災害はいつでも来る」と常々の防災の意識を持った事が大切と話した。「忘れる事無く後世にも伝えて行くための、未来への幕明けを祈ります。」と述べた。毎年荒砥地区に「楽法会」が来町し津波で亡くなられた方がたを供養している。
七人が演奏する雅楽の音色で「七回忌法要」が始まった。5名の僧侶の読経に参列した地区民が一緒に祈り「阿弥陀教」を唱える。津波から難を逃れた全慶寺の集会所の高台から、荒砥漁港・地区に「な・む・あ・み・だ・ぶ・ー」の読経が響き渡った。
志津川荒砥地区と南三陸町の津波の歴史
荒砥地区は志津川の北部に位置した、入江の漁村で海岸部と斜面に住宅が点在する集落だった。荒砥地区には114世帯で439人が住み、地区の21.2haが浸水地域となり、3・11の津波では16.6mの大波が地区を襲った。
南三陸町において明治以降に発生した大規模津波は、1896年の明治三陸津波がありM8.5で5.5m の津波で1,240名が死亡した。1933年の昭和三陸津波では87名、1960 年のチリ地震津波は5.4mの津波で41名の死亡者がでている。荒砥5.4mと平磯5.6m の津波を規準として町には5.4m の「防潮堤」が建設された。
2014年の東日本大震災ではM9.0で、最高波高は志津川林の23.9m と報告された。23年8月時点では3,301戸の住宅被害と695 名の死者数となっている。2015年の3・11の報道では死者566 人で不明者は212人と、合計で778人の尊い人命が失われている。
歌津「鎮魂の森」七回忌法要
1月31日午後2時より南三陸町歌津「鎮魂の森」で東日本大震災の七回忌法要が営まれた。主催したのは歌津地区でボランティア活動を続ける、「歌津支援プロジェクト」で、京都の知恩寺から浄土真宗の僧侶4人が、現地で読経をあげ犠牲者の冥福を祈った。
会場の鎮魂の森には慰霊碑を囲み100名を超える家族と関係者が集まった。代表の挨拶では「最後になるかも知れません。」と、集まった皆さんに向け語りかけた。読経の後で一人ひとりが白い菊を献花し、全員が焼香をした。その行列は長い列となり、津波で亡くなった家族に想いを馳せていた。
眼下の伊里前市街地は、かさ上げと道路・河川堤防や、歌津商店街の整備が進んでいる。今年4月には「伊里前福幸商店街」の町開きを予定している。賑やかだった歌津地区の再生はまだまだ時間が掛かりそうだ。伊里前川に架かる「うたちゃん橋」の解体も決まり、古き良き旧歌津町伊里前の名所が消え、新しく伊里前地区が観光地として生まれ変わる。
ー歌津地区の津波の歴史—
歌津伊里前地区は81.5ha が津波で浸水した。413世帯があり1,253人が暮らしていた伊里前商店街があり、「しろうお祭り」「田束山つつじ祭り」などのイベントが開催され賑わっていた。
明治三陸津波では歌津地区民799人、昭和津波86人、チリ津波0人、東日本大震災では119人が亡くなった。歌津地区は港で23.4m、伊里前では16.4m ながら死者が少なかった事は、旧歌津町の地域防災が実を結んだ事による。南三陸町で歌津地区の津波の死者の割合は「15.2%」にあたる。
町民待望のウジエスーパー建設へ
17日にウジエスーパーの新店舗の起工式が開催された。震災前に志津川地区のスーパーとして南三陸町民から親しまれたウジエスーパーも、3.11の大震災で全てを流失したが、店員の来客への避難誘導や従業員避難対応で、来客や従業員には死者はでなかったと聴く。
震災後まもなくウジエスーパー出店の「嘆願書」の署名活動があり、1か月余りで志津川・戸倉・入谷・歌津地区の1500名を超える要望書の署名簿を、まだ町民・町が震災の混乱の中で町に提出したが、建設とはならなかった。
震災後は今の志津川商店街の隣りへの再建計画も、町の復興計画が決定していない事で、店舗の建設には至らなかった。入谷地区にも出店要望があったものの、費用対効果の観点から出店はされなかった。ウジエはこれまでの志津川地区での経営で、多くの利益に恵まれ、その恩返しは「早期出店」と取り組んで来た。出来る事からとバスによる「車上スーパー」を南三陸町内に走らせた。採算は別にした以前のお客様への被災者支援があった。多額の採算割れの中で、顧客の確保と支援を続けてきた。今年の夏(7月末)にはオープンを予定していると言う。三社の代表と佐藤町長など関係者が約40名が出席し地鎮祭を行った。
アップルタウン南三陸ショッピングセンター概要
国道45号沿いの14m嵩上げの「被災市街地復興土地企画整理事業地内(天王前)」、敷地面積は約2万4千㎡。・ウジエスーパー 約1887㎡ ・薬王堂 約1000㎡ ・ホームセンター「ダイユーエイト」約3400㎡
310台の駐車場と162台の駐輪場を整備
建設場所も志津川地区中央団地の向かいとなり、南三陸町の丁度ど真ん中に立地する。志津川の3つの高台団地を結ぶ「高台横断道路」が28年度に整備予定なので、車でも来店しやすくなる。また、国道45号から駐車場へも入りやすく広い、車の無い方にも巡回バスが停車しやすい場所で、スーパー内に「停留所」の設置も期待される。志津川東団地からも新しい道路が整備され、住民生活の「買い物の場」の確保が、震災から6年5か月で完成する。商品選択ができ生鮮食品が安価で買える町になる。住民の今の最大の願いがもう少しで叶う。
従業員の雇用にあたっては、3.11の被災後にこれまで雇用していた従業員の要望に添い、近隣の同店スーパーで雇用を継続した。不足する従業員は地元雇用を中心にと話している。
モアイバス贈呈式
今回の南三陸町への「南三陸モアイバス」の贈呈式は、生徒が計画し実行委員会を設け、佐藤大輔委員長が中心に式典を開催した。
始めに山内校長の挨拶では「町おこしの一環としてやってきたモアイ化計画」である事を伝え、多くの関係者と先輩が頑張った事を、心に刻んで欲しいと語った。2014年に一国のチリ大統領が高校を訪れ、志高への支援を約束してくれた。モアイは「未来に生きる」との意味を持ち、「モアイは南三陸町の復興のシンボルとなった」と話した。
寄贈者あいさつでは、佐藤実行委員長が、「多くのみなさんに利用してもらいたい」と話す。
みなさんモアイサポーターズ鈴木清美副会長は「モアイ像の缶バッチを売ってモアイバスを寄贈しよう!」の目標に向かい、「小さな缶バッチがモアイバスに変わったこの瞬間に立ち会えた事が嬉しい」と話した。その他にも福岡の穂波ライオンズでは、缶バッチ販売支援の活動で1万個を達成した報告や、毎日大阪第一放送では生徒の活動を映画で追いかけ、「南三陸町の人は温かく優しく力強い」と、20カ所以上で沢山の人にその想いを映画化し紹介した。この収益金を活動支援として、応援金として寄贈した。
その後で志校生から佐藤町長に、モアイバスの「カギ」が贈られた。
町長の挨拶では、生徒による贈呈式に感謝と、先輩から後輩へと活動をつないだ。「つないでいく事こそ感動」と語った。
志津川高校の『南三陸モアイ化計画』
情報ビジネス科の「課題研究」の授業で選択した8人のマーケティングが、平成22年に立ち上げたことが始まりだった。
まずは南三陸町のいいところを調査し、「モアイの町・南三陸町」を全国へ発信していこうと動き出した。南三陸町のモアイの歴史は「1960年(昭和35年)に発生したチリ地震津波で大きな被害を受け、復興を遂げた両国の友好のしるしとして、1990年(平成2年)にチリ共和国大使が来町し、友好のメッセージ」として贈られた事から始まった。
「南三陸モアイ化計画」の取り組みは、一人の生徒の「モアイを活用して町おこし」の提案が採用された。まずはモアイキャラクター制作からで、モアイ商品の開発、平成22年11月14日の大漁市へ参加し宣伝をした。その他にモアイカレンダーの配布で活動を伝え、町民向けのプレゼンテーションの実施をした。
平成23年3月11日に大震災が発生し、続ける事は難しいものとなった。そんな時町民の方々から「こんな時だからこそ継続して頑張ってください。」との言葉で再スタートした。初めに県外から応援に来てくれた警察官に対し「モアイ復興プレート」を贈呈した。その後もモアイ像の発見や、チリ共和国からのメッセージ、そしてチリ共和国ピニュラ大統領の来校となった。
南三陸町には震災前に「いしゃりくん」という町民バスが運行していて、津波で被災した。町民バスの復活を目指し、平成24年2月25日からオリジナルの缶バッチとストラップの販売を始めた。
「みなさんモアイサポーターズ」の発足は、24年9月で仮設商店街の店主の皆さんを中心にした有志によりスタートした。
1回目の収益金450万円を25年11月に、2回目は200万円を27年6月にと、寄付金の総額が650万円となり町民バス購入の目途がたった。バスのデザインも3年1組の佐藤莉紗さんのデザインが採用された。
全国の多くの方々の寄付金やご支援の元、800万円により「モアイバス」が志津川高校から南三陸町への寄贈となった。
志高で仮設住民とのお別れ会
11月10日「志津川高校仮設住宅住民とのお別れ会」が開催された。現在、志津川高校のグランドには町の被災者の「仮設住宅」がある。震災後は51 世帯160 名が暮らしていると、及川副自治会長が謝辞で語り、今は45 世帯が暮らしている。住宅再建と災害公営住宅の建設も終盤となり、今年度内にはグランドの仮設は解体となる予定だ。
生徒の代表の挨拶では、野球部の練習で仮設の敷地内にボールが飛び込んでも、笑顔で迎えてくれる住民の皆さんの事は忘れないと語り、仮設生活の住民は「高校生の文化祭・運動会の活動に元気を頂いた。」と、高校仮設の生活を思い出していた。
高齢者が多く、車イスの方を温かく世話する生徒の姿があり、山内校長の生徒指導が地域民への感謝と敬愛に繋がっていた。
沼田地区民70 名が町防災訓練に参加
11月6日午前は8時15分にアリーナで、沼田行政区の町の防災訓練の活動が始まった。アリーナに避難し避難者名簿の記入があり、70名余りが参加した。防災訓練は町からの行政区要請で、怪我人として重症・軽傷・その他で、各6名ずつが医療の訓練と、消防署の怪我人救助に参加した。
10時まで訓練があり、町内の各地で開催された。9時30 分には広域消防の指導を受けながら、震度5の地震の対応訓練で、椅子に座っている人は落下物から頭を守り、立っている人はしゃがんだままで地震が収まるのを待った。
会場入りした時には「防災ヘリ」が町の駐車場に飛来し、庁舎前の駐車場では消防放水訓練が行われ、アリーナ脇では防火婦人部の炊き出し訓練が行われていた。
中総体新人戦
■野球 2回戦 階上・面瀬3-1歌 津 条 南4-3志津川・大谷
■バスケットボール【男子】1回戦 歌 津76-33 条 南 ▷2回戦 志津川62-51 津 谷 歌 津71-58 鹿 折 ▷準決勝 面 瀬62-56 歌 津 志津川56-36 松 岩 ▷協会長杯第3シード決定戦 歌 津76-46 松 岩
▷決勝 志津川69-67 面 瀬
―志津川、県大会へ―
【女子】1回戦 志津川57-38 津 谷 ▷2回戦 志津川98-8歌津・気仙沼 ▷準決勝 志津川93-14 面 瀬
▷決勝 志津川107-24 条南
―志津川、県大会へ―
■卓球【男子】団体Bリーグ 2位志津川 ▷準決勝 志津川3-0気仙沼
▷決勝 志津川3-2面 瀬
―志津川、県大会へ―
【女子】団体決勝 5位歌 津
▷個人 2位鎌田美波(歌津)―県大会へ―
■サッカー 予選A 条南2-0鹿折・歌津 大谷6-3鹿折・歌津 ▷予選B 新月6-0志津川 志津川2-0津 谷
■剣道【男子】団体 唐 桑3-0 歌 津 唐桑4-0志津川 歌 津4-0志津川 2位歌津 3位志津川
▷個人 2年3位阿部惟人(志津川) 1年2位阿部修大(歌津)
【女子〕団体 唐 桑4-1志津川 ▷個人 1年3位阿部 澪(志津川)
■ソフトテニス【女子】団体予選A 志津川2-1唐 桑 大 島2-1志津川 ▷準々決勝 階 上2-1志津川
■バレーボール【男子】総当たりリーグ 松岩2-1志津川 志津川2-1面 瀬 2位志津川
【女子】予選A 志津川2-0気仙沼 歌津2-0 松 岩 ▷予選B 津 谷2-1志津川 志津川2-0条 南 ▷準々決勝 歌 津2-0志津川 ▷準決勝 面 瀬2-1 歌 津 ▷中総体シード決定戦 歌 津2-0気仙沼
■柔道【男子】団体 志津川が県大会へ
▷個人軽量級 2位遠藤陸人(志津川) 3位山内 楓(志津川) ▷個人中量級 2位鈴木 陵(志津川) ▷個人重量級 1位佐藤光(志津川) 2位高橋巨夢(志津川)
上田市野球スポーツ少年団が来町し南三陸町で交流会
夏休みに入った7月29日〜 31日(2泊3日)まで、長野県上田市から野球スポーツ少年団の30名が来町した。
29日の午前7時に上田市を出発し、午後4時に到着する9時間の長旅だった。南三陸町の歌津地区の「平成の森」で入所式が、関係者の歓迎の元で開催された。
野球交流の開会式では、「南三陸町へようこそ!」体育協会の皆様に感謝します。仙台市の八乙女小からも参加いただき、「良いプレーを期待します」と、町体協阿部副会長が歓迎の挨拶をした。続いて上田市体協のあわら副会長は、「昨年は歌津地区から伊里前のブルーオーシャンズが来てくれ、交流試合と別所温泉で楽しんでもらった」。「汐風を食べて一生懸命に感謝しながらガンバリましょう!」と応えた。
8時半からの開会式の後で、上田市と名足小の第一試合が始まった。その他に志津川スポ少と八乙女野球スポ少との5試合が予定されている。
好天に恵まれ、体調に注意し頑張って欲しいと思う。交流団の団長は子供たちの笑顔が広がり、震災からの復興の子供たちの支援交流会だと話す。
夜は、志津川湾花火大会を鑑賞する。9時間の長旅を感じさせない、子供たちの元気な声が、しおかぜ球場に響いていた。
レベルの高い当地方の剣道に温かい多くの拍手!
第36回気仙沼・本吉地方スポ少剣道の部が、8月28日歌津中学校で開催された。
「勝つか、負けるか、超越した所を味わう事を大切にしてほしい」と、気仙沼・本吉剣道スポ少会長は話す。
小学校は南気仙沼剣道が圧倒的な強さで団体優勝した。志津川剣道は1回戦を南少剣Aと対戦し、0対5で完敗した。中学生は唐桑剣道がA・Bチームともベスト4に入り、決勝では歌津の道合剣道との熱戦を制し、道合剣道が接戦の末に代表戦でメンで1本を取り優勝した。道合剣道は4 人での団体への出場ながら、個々の選手の強さがきわだった。剣道少年人口の減少が、当地方にも表れている。
個人戦は志津川剣道スポ少の三浦選手が、小学生高学年2位に入り、優勝は南少剣の吉田選手だった。小学生は男女一緒の個人戦ながら、女子が勝利した。低学年は鹿折剣道の小野寺選手が優勝した。中学女子は鹿折剣道の阿部選手で、男子は唐桑剣道の山本選手がメンの一本勝ちで勝利した。
総ての試合を観戦して、気仙沼地方のレベルは県内でも上位に名前が入り、最後の勝ち負けは個人の普段の練習の成果の現れと思う。地域の剣道指導者の人数と質もその中にはある気がする。指導者も長く少年剣道の経験者が多い所が、着実に上位に入っている。
伝統を歌津地区は受け継いでいる。道合・雄飛は二つの地区で互いに練磨し、その二つが中学校で一つになり、更にその強さを増し、県大会で強い時代は女子の優勝と、男子の上位入賞を果たしている。
被災地から南三陸町の剣道の伝統を、人口減で生徒が減少をしても維持しているのは、地域の連携と意地の賜物と私は思っている。
種目別交流大会剣道の部 結果
■小学生低学年の部
優勝 小野寺悠斗(鹿折)2位 畠山夢那(鹿折)
■小学生高学年の部
優勝 吉田泰翔(南少)2位 三浦誠矢(志津川)
■中学生女子の部
優勝 阿部愛華(鹿折) 2位 秩父梨緒(唐桑)
■中学生男子の部
優勝 山本 楓(唐桑) 2位 千葉聖音(道合)
■小学生の部 団体戦
優勝 南少剣Aチーム 2位 鹿折剣Aチーム
■中学生の部 団体戦
優勝 道合剣道 2位 唐桑Aチーム
志津川地区本浜町の「七福神舞い」復活!
「第6回三陸海の盆in 南三陸町」で、夕方5時10分から本浜町に伝統郷土芸能として継承されてきた「七福神舞い」が、震災から復活した。
「三陸海の盆」は、東日本大震災で亡くなられた人たちの供養と、被災地の人々を支援する人々が、震災を風化させる事無く、早期の復興を目指す思いを共有させる場として催された。震災の慰霊・追悼の被災地の願いを芸能に託し、被災地を北の大槌町から大船渡・気仙沼と南下し、6回目として南三陸町での開催となった。
南三陸町の開催では地元の、行山流水戸辺獅子踊・大森黒潮太鼓の演技に続き、本浜町の七福神舞いの復活の演技を待った。多くの人たちが演技を映像として残す姿が見受けられた。本浜町の地区民が再生の一歩として「七福神舞い」があると思っていた。コミュニティーの再建の手段として考えていた「七福神舞い」は、本浜町から志津川地区の復興の郷土芸能となった。
復活できたのは、南三陸町の志津川地区の5つの神社の青年部が結成され、震災で無くなった地区の郷土芸能の復活にあたった。完成度は高く綺麗なものだった。
紹介では本浜町七福神舞い保存会の会長佐藤良治氏、荒島神社宮司工藤佑允氏、本浜町の町の元教育長だった阿部清敬先生が、地区の伝統芸能の中心で活動し、地区民が一丸となり子から老人までが参加し、七福神舞いを創り上げた。しかし、震災後に三氏は逝去し、芸能の継承の再生は厳しいものとなった。
保存会は津波の前の年に休会となり、次の年の3 月11日にあの東日本大震災に見舞われた。
何と皮肉な結果だろう。七福神舞いを神社に奉納しなかった翌年に、大震災が発生した。偶然にして余りにも厳し過ぎる自然災害と感じた。
地区の解散時に本浜町の若者達に祭りの再建を託し、地区民みんなで資金を寄付した。今回は地区民に七福神の復活の発表を伝える案内を30数軒送り、3軒が返って来たと言う。今後、多くの地区民が仮設から住宅再建や災害復興住宅入居し、生まれ変わった「七福神舞い」に、なつかしき本浜町に触れ、旧志津川町本浜町の隆盛時代に夢馳せるだろう。
三陸海の盆では、「復興市」「かがり火祭り」「花火」が夜祭として開催された。多くの観客が志津川地区の伝統郷土芸能を満喫した。
今後は本浜町の祭りから、町の祭りに、新しい志津川地区の芸能として、将来に繋げて欲しい。
志高の伝統よ永遠に!
平成28年度志高同窓会
今年も7月15日南三陸プラザにおいて町内外から、想定を遥かに超える85 名前後の志津川高校同窓生が集まった。卒業生として今後も「志津川高校応援団」として、活発な議論の中で母校を応援して行こうと誓いあった。総会の審議は「慎重審議」の上、終えることができた。
今回は、昭和46年3月卒業の普通科23 回生の小畑会長の呼び掛けの活動により、当時の高校の先生が参加してくれた。仙台に被災後移転してしまった町内の方々も参加してくれた。恩師を囲む同級生の皆さんは1テーブルを埋め、昔話となつかしさで笑顔に包まれていた。
総会の中で、同窓会会長が「同窓会から生徒を応援したい!」と二つの事業を提案した。1. 同窓生による模擬面接の開催、2. 東北大会など高成績の活動に奨励賞を贈る、などが了承された。
また、志津川高校同窓会仙台支部が「宮城県支部」と変更された。富谷など仙台市周辺に住む同窓生が多く暮らしているため、名称を変更した。
韓国高校生と芸能交流会
7月25日に韓国の大眞女子高等学校の女子高生20名と、志高生130名を超える生徒や、教員、多数の関係者が集まり、相互の芸能交流をおこなった。両校の校長は「一期一会」の大切さを話し、大眞高校校長は「日本と韓国が心を通わせ、素晴らしい大人になって欲しい。」と語った。
チマチョゴリに身を包み来校した女子佼生の姿が、屋体に入ると目に飛び込んできた。志高で現在行っている「第40回全国高等学校総合文化祭の国際交流事業」の一環として、今回の韓国の高校生との交流となった。両校の学校活動報告が通訳を交え会場に伝えられ、両校の校歌が披露された。志高生は旗を振り歓迎の意を表していた。
全国大会に出場する志高の「行山流水戸辺獅子踊」の発表は、太鼓の気高い音で舞台に登場する。その勇ましさ躍動する生徒の演技に、会場の雰囲気が高まった。真剣に見つめる大眞高校の女生徒を前に、堂々とした演技は南三陸町に誇れる伝統文化だった。
母校の生徒達は大震災を体験し、国内・国外の同世代の高校生との意見交換で、愛国心・母校愛を深め、グローバル社会と早期の同世代の思考・意識を学び、社会人としての視野を広める活動となっている。
志高同窓生による就職模擬面接
同窓会小畑会長の提案で、町内の企業や地元同窓生の事業所による「模擬面接」が初めて実施開催された。10班前後に別れ、就職予定の生徒が、参加者の3〜4人の面接官を前に面接を受けた。進路指導の先生との学校内での面接指導から、直接企業の代表による面接は、いつもと違う経験に緊張でいっぱいだろう。
模擬面接の質問例には、「将来の夢」「部活で得たものは何か」「人と接するのは好きか」「最近のニュースで気になったものは」など、面接官からの問いに真剣に答える生徒の姿に、後輩たちの社会人になる意欲を肌で感じた。
4〜5人の模擬面接での答に、生徒は「地元で暮らしたい」「地元で仕事をしたい」の希望が多かった。両親への感謝と、被災支援の感謝と、町の再建に貢献したいなど、多くの言葉に生徒たちの「郷土愛」があった。志高魂で学業・就職試験に望んでほしい。
28 年6月19 日(日)本吉郡小学生剣道大会結果
団体戦 1.道合剣道スポ少A 2.雄飛剣道会A
個人戦 3年生以下
1.三浦櫂波(雄飛) 2.安部 陽(志津川)
4年生女子
1.高橋胡都(雄飛) 2.岩石海鈴(雄飛)
6年生女子
1.三浦愛可(雄飛) 2.畠山七海(道合)
4年生男子
1.阿部 旭(雄飛) 2.三浦綾星(雄飛)
5年生男子
1.畠山興斗(道合) 2.阿部波斗(道合)
6年生男子
1.三浦誠也(志津川) 2.千葉知暉(道合)
〔男女4学年以上の個人戦1位・2位は県大会へ〕
志津川剣道スポーツ少年団の活動から
今年の大会は2人の入団により、団体戦は5名で挑む事ができ、
限られた練習の中で個々の力を十分に発揮できた。
3年生以下の部で安部選手 惜しくも2位に
6年生男子では三浦選手が見事に優勝!
我が団の安倍陽選手は一回戦を面の一本勝ち、2回戦を胴の一本勝ちで、みるみる内に決勝へ勝ち進んだ。決勝は試合時間2分ながら、互いに有効打がなく延長戦となり勝敗が付くまでの戦いで、その時間は7分以上にも達した。小学3 年以下の戦いは、緊張感のある想像を絶する決勝戦で、雄飛剣道会の三浦選手が優勝した。我が団の安部選手も沢山の優勝のチャンスがあり、1度2度と審判の旗が揚がったが、審判の有効打突としては認められなかった。色々な身体の部分を竹刀で叩かれながら、臨む戦いは観客からの暖かい視線と歓声が贈られた。二人の対戦は指導者として、互いの成長の一部分になると思った。練習でも7分の緊張感の中の試合は経験なく、この体験が二人をまた強くするだろう。(志津川剣道スポ少 千葉)
「ぶたれて反省、ぶたれて感謝。」の、郡連会長の齋藤7 段の言葉に、剣道の神髄の一部分がある。志津川剣道スポーツ少年団は「団員募集!」しています。
東日本大震災後の支援への交流の輪広がる
「愛の福袋」の活動支援
「愛の福袋」支援の歩み報告会
WFWP広島支部の支援プロジェクトは、女性の支援として「目と目の交流ができるように」と、南三陸町の被災者に「愛の福袋」を届け、話を聴き寄り添う事から始まった。
支援の歩みでは、2011年4月下旬に、今、必要とされるタオルを段ボールで届け、5月には福島にワカメを送った。その後に貸切バスで会員が石巻市といわき市を訪問した。福島の中学生にはピアノを贈り、被災地に広島市長とこども達のメッセージを届けた。また、山口・兵庫・静岡・富山など多くの会員が、被災地へ観光・買物支援に訪れている。
東日本大震災後の支援への交流の輪広がる
3度目の来町! 「愛の福袋」の活動支援
富山・広島・福岡・沖縄の女性の会「愛の福袋」が3回目の、仮設生活者支援に南三陸町に来町した。
午前9時前には民宿を出発し、今回で2回目の「のぞみ作業所」へ向かった。訪問までの20分の時間を利用し、東地区西工区の災害公営と自己再建の地域を視察に行く。皆さんからは「何時までに全ての住民の再建はなるのですか?」と、仮設生活者の生活の場確保の心配をする。9時30分から「のぞみ作業所」の通所生に会い、沖縄の「チンスコウ」などのお菓子と共に、通所生への「愛の福袋」を届ける。作業所には生徒たちの笑顔が溢れた。訪問の7名の方々が寄り添い話しをする。制作する葉書・名刺やタオルなどの、のぞみブランドの商品を各々が買い求めていた。
次に3月末いっぱいで入れなくなる「防災庁舎」の焼香に向かう。今も観光支援の団体は週末にバスで何台も、役場職員や住民が亡くなった場所の慰霊に訪れている。少人数の観光客が来ていた。防災庁舎前での記念写真は当然の事となりつつあり、「南三陸町へ行ってきました!」の報告としての行動は欠かせないようだ。
この後志津川高校仮設に向かい、高校の登校坂から被災地の今と、津波発生時の町が津波で覆われる写真と共に車上から説明をした。震災以前のモアイ像も、被災で残った頭部が学校に設置されている。見学は「終業式」なのでモアイまでは行けなかった。皆さんの話に「モアイ像は私の所にもありますよ。」とメンバーの一人が話し、「私の近くにも!」と、チリのモアイ像が全国にある事を知った。
ここから「旧福祉の里」での高齢者と職員の被災の状況を伝え、津波から命からがら助かった人の話しもした。そして、津波発生時に私がいた所(旭ヶ丘突端)から、津波の猛威が八幡川をさかのぼり、眼下の市街地(現在の商店街)の津波襲来の光景を思い起こしながら話すと、その悲惨な姿に涙ぐむ方もいた。
南三陸町での最大の楽しみの一つに「キラキラ丼」があった。以前に訪れ食べた海鮮丼が忘れられないと、「寿司の弁慶」さんを指名された。この日は平日だったせいかお昼時なのに8人が直ぐに座れた。豪華海鮮丼を案内の御礼にと、ご馳走になった。先輩の店でもあるが、震災後にうにの「キラキラ丼」を食べたが、さすがに寿司ネタの海鮮丼は初めてで美味しく頂いた。さんさん商店街は今年限りで無くなり、今後は志津川市街地の嵩上げの場所、道の駅(ショッピングモール)に移転し商売を続ける。私も南三陸町の食事処として薦めたい店の一つです。南三陸町に来たら思い出造りの為にも、是非に南三陸町の名物「キラキラ丼」をご賞味頂きたい。
買い物は月曜日で商店街の店が数店定休日となっていた。みなさんは「南三陸のワカメは美味しい!」と、三陸産ワカメの爆買いが見られた。泊まった民宿からも買い求めると言う。5月までワカメの収穫が海であるものの、終盤に近づき少しずつ固くなっていく。今は大きくなる「メカブ」の収穫が本番となっている。私は及善さんの笹かまと、雄新堂さんのクルミ入り黒糖パンを買い求めた。笹かまは仙台の知人に、蒸しホヤと塩蔵ワカメと共にお土産とした。
最後に志津川中学校仮設に行く。現在72世帯があると自治会長は話す。支援の活動は、所在する県での地区の企業やお店からの、義援の物資を袋に詰めた「愛の福袋活動」です。7人が3組に別れ福袋を届けた。自治会長は住民の居ない仮設も多いと言う。「留守の場合は、玄関に物資を置きます」と告げた。「愛の福袋」の中には支援する方からの「手紙」が入っている。私の同行は今回で3回目となり、最初の福袋の手紙を今も部屋に貼っている。物資もありがたいが手紙は心に通じ嬉しいものである。この日、私も沖縄の会員さんから「手作りお菓子」を頂いた。
南三陸町への心温まる「愛の福袋」、ありがとうございます。町民になり変わり御礼を申し上げます。
東日本大震災後の支援への交流の輪広がる
南三陸町震災支援への恩返し交流会
南三陸町への長野県飯島町マジッククラブによる「笑顔の支援交流」があり、今回は伝統と歴史の300年間も続く50年目の節目の「七久保御柱祭」に招待を受け、飯島町に感謝の気持ちを伝えに向かった。
3月19日の朝6時に南三陸町を出発し、南方仮設に入居の先輩と3人で宮城県を離れ、一路、長野県飯島町に12時も掛かって到着した。こんな長い距離を3度も長野県飯島町から南三陸町への支援を続けている。ジャガイモ・ネギはクラブの宮澤会長が自分で育て、100Kを8回も送ってくれた。「また、ジャガイモを今年も贈ります」と言う。感謝でしかない。
歓迎会の初めに宮澤会長がこれまでの南三陸町への支援の経過と、防災庁舎で最後まで避難を呼びかけた遠藤未希さんの事を話し、「未希の家」に宿泊したのは4番目ですと語る。また、南三陸町出身でシンガポールに海外勤務の須藤さんとの交流の事を語った。続いて南三陸町とのキッカケを作ってくれた、飯島町の町議会の久保島さんが、ブログを見てメールで連絡をくれた経緯を語った。震災直後で行政の受け入れ体制も整わない中で、被災調査協力が依頼され、23年夏ごろに総務常任委員会と副議長を含む6人の交流会を、歌津の「泊崎荘」で開催した。また、飯島町の竹澤議員が歌津出身のお嫁さんだった事も、南三陸町との繋がりの一つと話してくれた。
食事の後はマジックを会長が披露した。一緒に行った先輩も、被災者支援や障害者施設でのマジックを行いたいと、宮澤会長から直々の指導を受けるなど、参加してくれた仲間との、新たなマジック交流も生まれた。
会場となったクラブ会員のお店「天七」さんでは、地元長野県飯島町の郷土・自慢料理を堪能した。長野県は馬肉の産地とあり「馬刺し」や、馬肉を使ったコロッケ「バロッケ」など、飯島町でしか味わえない「特製蕎麦」や「特産野菜天ぷら」などを、味わう事ができた。楽しい美味しいひと時となった。
飯島町マジック倶楽部会長の宮澤会長はじめ会員の皆さんの、心温まる「おもてなしの心」に更なる感謝を申し上げたい。
この他にも、長野県の原村は被災住民の温泉招待があったり、上田市の体育協会でのスポーツ少団との、相互乗り入れ交流がある。
長野県飯島町「御柱祭」参加!
飯島町の七久保地区の山の中腹から、神社に奉納する御柱を曳く声が聞こえてくる。道なき山道を、大木を500名以上の地区の氏子が、みんなで力を合わせて御射山神社まで引く、「山出し」の儀式が執り行なわれた。
一団を先導するのが竹澤会長で、爆竹の気高い音が山の隅々まで伝わる。威勢の良いラッパ隊の音がスタートの合図だ。若者の「木遣りの声」が響き、「みんな力を貸し〜、お願いーだ!」と一団に声を掛ける。同時に「エイ!エイ!」と一団となり応え、「よいしょ!よいしょ!」と皆が一斉に御柱を曳く。神社まで七曲の道路を、カーブでは御柱を上手にバランスを取りながら、10m・30mと少しずつ2時間余りを掛け、休み休み、一歩一歩前に進む。それを多くの町民が追いながら家族の姿を見守る。伝統を引き継ぎ脈々と続けられ、「子から子へ」、未来へ続く飯島町の祭りだった。
高坂前町長宅に、今年の御柱の元口部分が配置されていた。平成28年4月2日の本引きの為、27年11月28日に約75年生「モミの木」、胸高直径142㎝高さ14mの七久保柱が、高坂町長の任期満了前日伐採と記された御柱が、町長宅の玄関に飾られてあった。
「町曳き」では多くの一般の町民も参加し、子ども達が先頭を曳きその中に私たちも加わった。御柱の前で竹澤会長と先導者と、私たち3人が記念写真に収まった。「南三陸町から来たんです!」と話すと、親切丁寧な対応に町と町との交流の「おもいやり」を感じた。飯島町の皆さんありがとうございました。
長野県自治体と 南三陸町の交流拡大!
南三陸町は5月6日までに長野県原村と防災協定を結んだ。原村は震災直後から南三陸町の被災者支援を続け、被災者を招待し大震災で疲れた体を癒してもらう活動を毎年続けてきた。また、職員派遣などの支援も受けている。自治体の交流には、人口減への対策でもある。
また、上田市体育協会は、南三陸町の体育協会やスポーツ少年団へ義援金を送り、互いの子供達と役員の交流を深めている。今年は上田市から志津川湾夏まつりに来町してもらい、スポーツ交流と夏まつりを楽しんでもらう企画を、町体育協会は計画している。
原村との災害協定は、地震や津波・豪雨の時に人的・物質的な迅速支援を相互に展開する。現在は18年の山形県庄内町、26年の長崎県南島原市などに続き、長野県原村との協定は5自治体目となる。
南三陸町は3.11の大震災で有名になったことで、多くの自治体が「手をさしのべる活動」が続いている。
長野県飯島町の宮澤さんありがとう
今年も長野県飯島町の宮澤さんから素晴らしい「ネギ」が届いた。50本入り10袋500本で、夏のジャガイモに続き秋のネギと、物資支援も3年目を迎えた。
これまで配られていない仮設へと、沼田地区に3袋を届け、次に横山駅裏仮設に3袋、あと4袋は登米市南方2期仮設に届けた。自治会長さんの入居者への配布には感謝を申し上げたい。一世帯2本と少ないが、頂いてくれた人は「1本でも嬉しい」との、嬉しい声を聞いた。
二部門で優勝 第13回宮城県テコンドー選手権大会
南三陸町の児童・生徒ガンバレ!
第13回宮城県テコンドー選手権大会(2016全日本ジュニアテコンドー選手権大会県予選会)が4月17日岩沼市総合体育館ビックアリーナで開催され、南三陸町テコンドー協会は沿岸部唯一の練習所でこの大会を目標に練習に励んでまいりました。
大会には代表選手5名が出場、キョルギ(組手)プムセ(型)で大活躍、全員上位入賞いたし南三陸町の名声を高めてまいりました。特に、キョルギの試合は1分間3Rと技術とスタミナを求められる厳しい試合でしたが高度な技を幾度となく繰り出し大健闘いたし、今後の活躍に大きな期待がもてました。
結果は下記のとおりです。
キョルギ
小学生女子5・6年の部
優 勝 近藤 恋(伊小5年)
中学生男子の部
優 勝 三浦勇希(歌中1年)
中学生女子の部
準優勝 三浦桃香(歌中1年)
第3位 近藤 月(歌中2年)
プムセ
小学生の部
第3位 三浦真広(伊小4年)
中学生の部
準優勝 三浦勇希(歌中1年)
中学生の部
第3位 三浦桃香(歌中1年)
南三陸町テコンドー協会及川久二郎
JR 大船渡線・気仙沼線全線の早期復旧を実現する集い
2月28日の午後2時から「JR大船渡線・気仙沼線全線の鉄路での復旧を早期に実現する南三陸の会集い」が、南三陸プラザを会場に開催された。会場には200名を超える気仙沼沿線・南三陸町の住民が集まった。
初めに「設立準備会」の会長の小野寺寛氏(歌津)が、挨拶と経過報告をした。その後で、先進事例(女川町)と通学体験発表(高校生と親)があった。設立総会では後藤一磨氏を議長に3つの議案について協議に入り、会則の制定・役員選出・事業計画が審議され、会長に小野寺寛氏を選出した。
鉄路復旧を早期実現する為に、署名簿も配られ28年4月30日での期間、署名活動が参加住民により行われる。
後輩の為に気仙沼線の復活を!
気仙沼の高校に通う高校生は、震災前は1時間で通学できていたものが、現在のBRTだと1時間30分を要している。朝の課外授業に間に合うように行くために、本吉駅まで送ってもらっている。「母子家庭の私は母に無理を言っていて、今の状況を作っている。」と涙ながらに話す。夜遅くまで仕事をし、介護して家事をしている。こんな母には感謝してもしきれない。(仙台までは鉄路だと1時間30分~2時間で、車を持っていない家庭もある。)高校生の勉強の為にも鉄路は必要で、今後の仙台へ通学する生徒に可能性を作って貰いたいと話した。
(南三陸町の高校生)
高校生の通学時間の苦痛!
BRTでの通学は、登米市の柳津からで、歌津地区に来る頃にはバスは満杯となり、気仙沼市内の高校に通っている生徒は、通学が苦痛でたまらないと言う。立っての通学は停車するたびに人が乗って来て、前に詰められ、いちいちバスから降りる事もあると言う。こないだの雪の日は3時間以上も掛かった。親としては「不安と心配でいっぱいだ。」お年寄りも大変と思うし、電車の時はこんな事は無かったと言う。
(歌津から通学する親から)
ご老人や妊婦さんはBRTでは大変!
三人家族の私は、戸倉~志津川迄の通学をしている。祖母は病院に行くと疲れると言い、急ブレーキなどで具合が悪くなる。(病院に行ったのに具合が悪いと言う)。BRTだと体調を崩し勉強も出来ないとも話す。妊婦さんや高齢者・子供達の大変さを考えると絶対に鉄路は必要だ。安定した通勤通学には電車しかない。
(戸倉の高校生)
「三陸の会 役員名簿」
* 会長 小野寺寛 *副会長 後藤一磨
*幹事 渡辺啓・菅原衛昭・大滝りう子・鈴木千枝子・ 内海明美*事務局 伊藤俊
*会計 及川幸子 *監事 小野寺久幸・酒井禅悦 *顧問 川村巌(三陸ふるさと連合会会長)・田畑英伍(在仙志津川会会長)・山内十三喜(在仙歌津会会長)・阿部隆二郎(㈱阿部長商店南三陸ホテル観洋 代表取締役副社長)
「署名趣旨(抜粋)から」
私たちは安全性・定時制が高く大量輸送可能な鉄路の復旧を求めます。
被災直後から岩手県沿線市・町民の会や気仙沼を中心とする実現の会が設立され、鉄路での復旧実現署名活動に取り組み、42万人(気仙沼・本吉地方36589人)の署名を得て、2012年7月に国交大臣やJR東日本に提出し、「鉄路復旧」の回答を得た。
昨年12月の沿岸首長会議では、気仙沼市を除く市・町がBRT本格復旧の受け入れを表明した。短期的に見れば日常の利便性が高いのが有利に思えるが、長期的にはインバウンドを含む観光客誘致による交流人口の増加や産業振興に鉄路が必要です。
南三陸町は明治29年三陸大津波・昭和35年チリ地震津波と三度に渡る復旧・復興を遂げ、80年の歳月の先人達の偉業の元にある。
加速する人口減少の歯止めを掛け、沿線の世界に誇れる歴史や自然・文化・伝統を広く伝える為にも、鉄路の復旧が必要である。宮城から岩手・青森の沿線の志を一つにし運動に加わる。平成28年2月28日に会を立ち上げ、JR大船渡線・気仙沼線全線を鉄路で復旧する運動を展開する。
鉄路復旧を早期に実現する南三陸の会
「震災をチャンスに!」 仙台直通の40年の夢叶う! 女川線開通
蒲鉾本舗高政 高橋正樹さん
女川町の復興の若きグループの一員として、これまでの震災からの再建に取り組んだ、蒲鉾本舗高政・取締代表室長の高橋正樹氏の話に、南三陸町の新しい町づくりの在り方と、今後の取り組みの姿形のヒントをもらった。
女川町は鉄道での町づくりを考えたと言う。過疎の町のイメージの女川駅は終点の町だった。しかし、全国に繋がる線路であり、「女川町を始発に全国に町を発信して行く!」と言う。女川駅についてJR東日本からは「駅を自由に造って下さい」と言われ、無人駅として、三階建てで「湯ポポ」も造った。
震災前に「10013人」が住んでいた町は、872人が津波で亡くなり8.7%の人口が減り、その数は11人の内1人が亡くなったことになると悲劇を伝えた。
駅から見える「日の出」をブログにアップした所、多くの町外にいる町民が「町に帰って来たい」との気持ちになった、と言う。現在6千人に人口が減少している。その現実を受け入れたと言う。定住人口 が減るのはしょうがない、「プチ移住」など定住も増え、起業する方も増えている。5月には仙台市から女川町への「直通」も開通し、町と人を繋ぐ。そんな中で「BRTのデメリットは判らないが」、と前置きした上で、現在ライブスタジオを造ろうと思い、「酒と肴の音楽の町」を目指している。3月26日のイベントも企画され、石巻駅では何でもすると、「増便」も考えていると言う。電車だと3万・4万・5万人の人を呼び込めるが、はたして「BRT」で2万・3万人を集められるだろうか? 女川町は駅の整備により、人を集められる状況を作ったと言う。現在は1.5倍の観光客が町を訪れるようになったとも話す。
仙台と女川間の直通便は、町民の「40年来の夢」が叶う事となった。前置きで、女川と南三陸の町は同じような所と言い、震災を「自分たちはチャンスにしないといけない!」、こんな考えで若者たちは震災復興に取り組んだ、と結んだ。
志津川高校卒業式
平成27年度卒業式が小雪舞う中で開催された。情報ビジネス科26名と、普通科83名が志津川高校の学び舎から巣立った。
山内松吾校長の式辞では、4年前の大震災から、世界で一番災害に強い町「防災都市」を目指す。しかし、地方の若者離れが深刻なものとなっている。町では支援をして行くと言う、取り組みは他の高校にはできないと話した。
町はこれから、自然と融合した生業の町をつくる。何があっても生きようとする強靭な力が備わっている。「人間愛」を優先する。皆さんの愛する南三陸町、登校坂の記念碑に「生きて共にいき学ぶ事の大切を知る。」と語った。
祝辞では佐藤町長が、挨拶の初めに「決してあきらめない!」の言葉を送った。壊滅的な町の被害に対し全国からの支援があった。「感謝の気持ちを再確認した事と思う。」と話した。これからは、多くの人達を助けられる人間になって、限りない夢と可能性を抱いて行って欲しい。「南三陸町は皆さんの「ふるさと」で在り続けます。」と結んだ。
送辞では在校生を代表し、大坂さんが立ち、先輩たちは常に私たちの目標だったと話し、見えない所で沢山の努力をし、そんな先輩達が誇りだった。「苦労と言う根は、どんな事も打ち砕く!」と卒業のはなむけとした。
答辞では卒業生を代表し、阿部一樹君が三年間の思い出を振り返った。「この体育館から志高の生活が始まった」と言い、先輩たちの背中は大きかったが、多くを分かち合う事ができた。修学旅行や部活では時間が立つのが早く充実していた、と語った。兵庫県西宮高校との交流は、震災から5年が経っても温かい心を持っていてくれていると知った。全国の方や先生・友人に助けられ、両親がどんな時にも支え包んでくれた。109人の同級生とここまで来た事を誇りに思う、と語った。
サプライズが卒業式終了後にあった。NHKの「明日へのコンサート」の収録が、高校の卒業式だった。卒業生の一人が「キロロの歌を聞きたい」と、メールを送った事が実現となった。
キロロは「前を向いて過ごしてきて、新しい未来を築く日が来た。」と卒業生に話し、デビューヒット曲の「ベストフレンド」を歌い、次に「みんな貴方を愛してる」の新しい曲を、会場全員で歌った。「周りを愛して自分を愛して」の言葉を、お守りにして下さいと歌の後でメッセージを送った。最後に「未来へ」の歌の最初の歌詞に「母がくれた沢山の優しさ」「ほーおら足元を見てごらんこれが貴方の進む道・・・」の歌の歌詞に、目頭を押さえる卒業生の姿があった。
南三陸町の5 年間の総合戦略 住民説明会
1月25 日(月)午後6時30 分から町役場2階会議室で、事務局の企画課地方創生・官民推進室の職員により、町の5年間の総合戦略案が説明された。会場には30 名前後の住民が、町の計画する政策を熱心に聴き入っていた。
町の総合戦略の策定にあたり、産業界・町や国の関係機関・教育機関・金融機関・労働団体・メディア等、産官学金労言などに住民の代表者で構成される、「南三陸町総合戦略会議」を立ち上げた。官民連携と民間の活動を活性化する、プラットホームとしての役割を担う。活動に「協働と連携」として、住民説明会の開催・パブリックコメントの実施などをおこなう。
南三陸町総合戦略施策として、町の将来像に、「森・里・海・ひと・いのちめぐるまち、南三陸」を上げた。序文として、「私たちは東日本大地震を経て気づかされた。森・里・海・ひと・いのちがめぐって生かされている事を、だから、私たちは、いのちめぐるまちをつくるため、ここに宣言します。」と唱えた。
● 私たちは地域の仕事(ちから)を輝かせます。
1、第一次産業の就業支援・雇用促進の奨励など( 町の仕事を輝かせる)
2、地域交流拠点形成の推進など( 観光・交流を促進する)
3、町の創業支援( 新たなしごとをつくる)
4、( 町のしごとを発信・共有する)
● 私たちはともに未来を拓く人々が集う家(まち)をつくります。
1、住民確保の推進など( 移住・定住促進)
2、地域おこし協力隊・感謝・絆プロジェクト( 関係人口を増やす)
3、集うまちの発信
● 私たちは、昔から自然のなかで、ともに支えあい世代( いのち) をつなぎます。
1、子ども、子育て支援・子ども医療費助成・子育てクーポン配布など( 子育てしやすいまちづくり)
2、育英資金貸付制度・修学資金の貸付制度など(「学びたい」を実践する)
3、まちの子育て・教育環境を発信、共有する
その他に、「官民連携で南三陸らしさを実現する」
1、おらほの街づくり補助金など(民間活動のサポート)
2、南三陸ブランドの育成と管理(南三陸ブランドを輝かせる地域シンクタンクの創設)
3、まちの魅力を発信・共有
企画課地方創生・官民連携推進室の職員の説明に、集まった住民からの質問の機会を設けた。「子供が町に残りたいと言うが、働く場所がない、雇用の場を増やして欲しい」「町には40 歳を過ぎた独身者が多く、町でも婚活対策に取り組めないか」「子供たちの進学にあたって、もっと充実した奨学制度の確立を」「町の復興に向かう説明会を、もっと多くの町民に伝わるよう周知を図ってほしい」など質問があり、ボランティアで町に生活する方からも、希望や要望も出された。それに対し副町長が、質問に丁寧に答えてくれた。また、町から「将来の人口推計」が示された。5 つのケースで45 年後の人口を数字で表していた。27 年12 月末で13806人で45 年後の(2060 年) には、ケース4( 出生率向上・移動均衡「2030」) で7143 人、ケース2( 出生率向上・移動縮小) で5520 人、ケース0( 現状の出生率・移動率) で4361 人と、5種類のケースでの減少をグラフで想定していた。町は戦略会議で上げられた事業で、具体的な取り組みを粛々と進めて行きたいと話す。
入谷地区で新たな農産品への挑戦
入谷地区の農業家の鈴木さん(中の町)は、昨年から新たな地場産品として「キャベツ」生産に力を入れ、今年で2年目を迎えた。
入谷地区の農家8軒で「8000玉」のキャベツの出荷目標を立てている。出荷先は山形県「ながい市場」と、17年に新井田地区に出店を予定する「ウジエスーパー」(登米市)で、季節野菜として安定出荷を目指し、露地物からハウス生産と、需要に対応できるよう「YR春系305号」と「タキイ交配あさしお」の2品種を生産している。
「黄金郷菊」の生産地として発展してきたが、外国から格安菊が国内入荷となり、価格低迷により新たな生産品として、キャベツ生産が安定収入へと期待されている。
鈴木さんは入谷地区での生産にこだわり、仲間と新しい生産品の発掘に力を入れ、観賞用の「はなもも」の生産出荷にも力を入れている。
地区で季節の集まりを通し共に生きる
年末の27日に志津川大森の星さんが情報をくれた。「さつきが咲きました。みんなで集まり卵酒でお花見をして元気を貰いました。」こんな話題だった。
志津川魚市場から大森の高台に通じる入口に星さんの家はあった。自宅から下は津波で全ての家が流され、一部損壊や電気・水などのライフラインが崩壊した。約10m以上の津波が地区の入り江まで到達した。家にあった100鉢ものさつきが流され、今回そのうち30鉢が残った。その鉢の一つが今年の暖冬と言われる温かさで花芽がほころびたと言う。楽しい事や嬉しい事・悲しい事があると、大森の近所の人達が集まる場所でもあった。
大森地区の老人会の仲間が寄り合い、津波以前は一人暮らしの地区のご老人に季節の行事として、大正琴のイベントやお弁当を振る舞うなど、活発な活動は震災前から仲間たちと開催していた。今回の津波により仲間の一人が亡くなり、震災から2年後の3回忌にあたり、みんなで市場に集まり花を海へ流し、線香を手向けその供養もおこなった。
地域の活動は震災後も続いていた。「地区の12人が寄り合って12月28日は恒例の餅つきをするんです。」と言う。星さんの自宅に向かうと小高い家の方から「コツン・コツン」と聞き覚えのある音が聞こえてきた。30段ほどの石段を上ると、臼と杵を使った餅つきをしていた。現在は「餅つきは大変」と、時代は餅つき機へと変わり、寂しさが増していた。「今日は八臼つくんです。」と言う。子ども達も参加し小さな供え餅を作っていると、ふざけて餅で遊ぶ子におばあさんの『怒る声と手が飛ぶ』。こんな地区の家族の営みが以前はどこにもあった。志津川地区民がバラバラになって、年末の地区行事の「餅つき」が今は薄れている。初めは「きなこ餅」で、臼で搗きたての餅に「黄粉」をまぶし、砂糖を掛けたもので、子供達はモジモジと「食べていいよ」のおばあちゃんの声を待つ。「ふざけてないで」とストーブの前の子供たちを危険だと叱る。私もお相伴で今年初めての杵搗き餅をご馳走になった。「あんこ餅もあるがら食べていがいよ。」と星さんが声を掛けて来た。こんなにも地区民が集まり正月前の行事が震災後も繰り返し行われている事に、少し安堵な気持ちが芽生えた。
被災地の生活を忘れさせる子供たちの演技
志津川小学校「学習発表会」
平成27 年度志津川小学校の学習発表会が10月18 日に開催され、その来場者の数に驚いた。体育館は修繕中で玄関はホール側からで、PTAの父母会が駐車場の配車や会場整備に働いていた。午前8 時50 分からの開演となり、開会の言葉では一年生が元気いっぱいにあいさつし、次に吹奏楽部の32 名が「エンジョイ・プラス!」で来場者を歓迎した。そして、丸森校長先生のあいさつに続き4 番目の二年生の「群読・ダンス」で学習発表会がスタートした。私は三年前に小学校の学芸会の見学が最後で、今回は先生や父母会に「是非来て下さい」の言葉が後押しをした。そして写真(下)は6 年生の「東京オリンピック1964」の劇の様子です。
戦争からの敗戦で日本の復興にはオリンピック開催が必要と言い、幻に終わった東京オリンピック、戦争直前に中止があった。出られなかった選手はアメリカでの水泳大会で大きな結果を残した。外交官やこうした選手・スポーツ関係者を中心に、オリンピックの東京開催の誘致活動を劇化した人々の物語だった。講道館の加納冶五郎が東京オリンピック誘致活動をしていた。政府の外交官平沢と水泳の広畑・橋爪選手の活動があり、世界の誘致国は「戦争の敗戦国に開催の資格はない」と言った。加納先生の死に際の「頼むぞ」との言葉に世界の人の心が動いた。ここには「スポーツの力」があり、「心の距離を縮める事が大切」と話し、「お互いが一緒に、人と人とが直接会う事が一番」「アジアで最初の開催を」と日本のプレゼンテーションを、関わった多くの人達の思いを平沢は述べた。有力の米国デトロイトの10 数票に対し、日本は30 票を超える世界からの指示を受けた。
昭和39 年10 月10 日の東京オリンピックでは、バレー女子の「東洋の魔女」や柔道・体操の活躍があり、金16 個・銀5個・銅8個の大活躍となった。戦争からの復興と希望と勇気を与えてくれた、東京オリンピックの誘致に取り組んだ、裏側の人達の活動を「地上の星」の音楽をバックに劇化した。最後の全員での「オリンピックの歌」では、会場から自然と拍手が生まれ、子供たちの演技にすすり泣く姿が会場に見られた。戦後の復興のキッカケをオリンピックに託し、見事に日本は敗戦からの経済の復興を成し遂げた。今回の大震災からの復興の在り方を訴えた劇に、来場者は南三陸町の復旧復興をダブらせただろう。子供達の発表にはキーワードがあり、発表でも「友達」「支えてくれる人がいる」など、学校生活の中で先生・家庭・地域があって、支えてくれる友達の大切さを演技で表していた。
学校生活の中で新たな挑戦への発表でもあった。子供達の劇は復興に必要な事は何かを説いている。学芸会の直後に安倍総理の病院視察があり、引き継続き石井国土交通大臣が来町し、市街地の復興とBRT のバス停の視察をした。子ども達は町の復興の進む途上で、厳しい環境の中を希望と期待を胸に一歩ずつ歩んでいる。
南三陸町福祉まつり2015
介護は家庭で悩まないで!
ベイサイドアリーナで「南三陸町福祉まつり」が10 月3日の土曜日に開催された。11 時30 分ごろに出掛けたが整理番号で「226番」だった。「餅まき」などの前半の行事や吹奏楽などの応援もあった割には、来場者の少なさを感じた。
ベイサイド周辺は来年度以降は災害公営が5棟でき、土地造成の後で住宅再建も始まり、約363 世帯が東団地に住む事となり、志津川住民の一番大きな地区となる。
災害公営は平均年齢が「70 歳」と言われ、福祉社会がここにある。今回の高齢者や障害者への、関係施設・介護用品の展示ブースが設けられ、生活支援の相談会も開催されていた。高齢者の町となる南三陸町には欠かせない活動と感じる。
催し物で「輝き劇団」は、認知症世帯の家族が抱える問題の解決策としての寸劇を、行政の「包括支援センター」の職員が演じてくれた。高齢者とお嫁さんの会話で、母が「はらへったなー、ごはんまだ・・」と嫁に言う。「お母さんさっき食べたでしょう!」と話す。10 分してまた「ご飯・・」と言う。何度も繰り返す母に「お母さんまたー・・」と言い返す。これが二度三度を続く。会場からは笑いの中に、今の現実が事実ある事を体験している人は真剣に見入っていた。
私もその中の一人で、一つの提案と解決方法として演じられたのが、何度も「ごはんまだ。」と言う母に「お母さんせんべいでも食べてて」「ご飯できたら声掛けるから」との言葉で、母のご飯が食べられないイライラを、柔らかく落ち着かせる対応がこここにある。ついつい家庭仕事の忙しさの中で、優しさの無い言葉を向けてしまっている事に気づかされた。母の認知は病気であり、強い言葉で何度も叱るような口調は、病気として見た「認知症」の悪化となる。上手く病気と付き合う方法を教えてくれた。
我が家でも震災後に、仮設の不自由な暮らしの中で、母の認知症が一気に進み、身体の不自由と重なり、父の母への介護が始まり、家事などの昼間の疲れと心労が、母をベットでの力ずくの梗塞へとなり、少しの間家族の苦しみがあった。私も昼間の被災再建の仕事の疲れから、夜の就寝ができない事に力による行動を取ってしまった。父の一日の介護から比べれば、夜だけのいっしょの生活はまだ楽だったかもしれない。
こんな環境に生きて来た私たち家族にとっては、町の高齢者の家庭の見回りと指導は力強いものとなった。この寸劇から4年前の出来事を思い出した。現在は母を施設に、父は週2回のデイサービスに行きはじめ、バラバラながら個々に安定した生活環境の中、南三陸町で暮らしている。
必ず家族が通る道、介護との上手い付き合いは、行政の支援を活用する事と、民間の施設を知りお金は掛かるが利用する事で、家庭の平安と心の安定を生む。何も知らないままでの両親の認知は子ども達にとってはショックでもあるが、現実を直視し向き合う事で解決が出来る。
(町内で生き続ける町民より)
復興タコも応援
創立90周年から100周年を迎えましょう
「友好の輪」を守って(山内副会長)
7月14 日(金)午後6時から志津川高校同窓会が「南三陸プラザ」で開催された。小畑会長・役員の同窓会参加への活動が実を結び、来賓・会員で80名余りの卒業生がしばらくぶりの再会を楽しんだ。
入谷出身の山内松吾校長の挨拶では、この日の準々決勝「育英高校」との対戦に生徒一丸となった野球応援の実施や、野球部の活躍を讃え、監督・顧問の指導に感謝の言葉を述べた。母校への就任は巡られた運を感じると話す。生徒にも上を向き多くの事に挑戦して欲しいとのメッセージを、この場を通し送った。
これからの自己の抱負と前置きし、「皆さんのおかげ様でこんな素晴らしい学校になった」と、卒業生と地域の支援があってこそと話す。震災を乗り越え、震災に負けない生徒の精神力を養った。県立ではなく「おらほの学校」として、亡くなった地元の同級生3人の分まで頑張って行きたいと結んだ。
佐藤町長の祝辞では、夏の高校野球宮城大会の活躍にふれ「昭和50年の流れに似ている」と今回の野球部快進撃を振り返った。また、志高生の「モアイ化計画」の活動による町への寄付金が、以前の450万円と今回200万円で650万円に達し、それに関西のテレビ局「毎日放送」が200万円を寄贈していただき、志高生の願い「巡回バス」の購入ができる金額が集まったと伝えた。是非、バスのネーミングと車体のデザインをとこの場で志高生にお願いしたいと語った。
今回は同窓会小畑会長の同級生から、参加された方々に新潟の名酒が贈られた。戸倉折立出身の西條盛昭さんで、新潟市でビルのメンテナンス及び清掃などの会社「株式会社ウエスト」を経営され、新潟から東北・関東圏を拠点に1000人の従業員をかかえる会社を立ち上げた。「故郷を離れて数十年、故郷以外の生活が長いにも関わらず、記憶の大半が故郷を思い出します。」と同窓会に寄稿を寄せた。
記念撮影は全員がカメラのフレームに収まった。集まった中には志高女子の姿もあり、かっこよくなった制服に時代の経過を感じた。
本吉郡の剣道剣士 歌中に集う
平成27年度 剣道級位審査会
日頃の練習による自分の力量を知る上で大切な審査会が、志津川・歌津・本吉地区の小中生35人が1級から7級までの級位に挑戦した。
実技審査では、1〜3級が切り返し・互角稽古、4〜6級が切り返し・打ち込み、7〜8級が所作・素振り。木刀による基本抜稽古法の審査では1級が基本1〜9、2級は基本1〜6、3級は基本1〜4までを行う。
結果は、全員が合格ながら、中学校1年生以上の1級受験にあたり、初段取得する技能としては、まだその所作・互角稽古の姿勢に達していないと、2級へ降格しての合格者もあった。審査の先生も今後開催される昇段審査の合格は厳しいとの英断を下した。
平成27年度本吉郡小学生剣道大会
6月21日 歌津中体育館
本吉郡内には現在歌津地区の道合剣道スポ少・雄飛剣道会があり、志津川地区には志津川剣道スポ少の3団体となった。会場は子ども達の元気な気合いが響き渡り、熱い戦いが繰り広げられた。
〈大会結果〉
〇団体の部
優 勝 道合剣道スポ少 第2位 雄飛剣道会A
第3位 志津川剣道スポ少
○個人の部
3年生以下の部(男女混合)
第1位 三浦 旭(雄飛) 第2位 三浦綾星(雄飛)
4年生男子
第1位 畠山興斗(道合) 第2位 小野陽輝(道合)
5年生男子
第1位 千葉知暉(道合) 第2位 三浦誠矢(志津川)
5年生女子
第1位 畠山七海(道合) 第2位 三浦愛可(雄飛)
6年生男子
第1位 阿部修大(雄飛) 第2位 伊藤亮介(道合)
6年生女子
第1位 阿部 澪(雄飛) ※個人戦上位2名県大会出場資格
大会の総評で、斉藤理事長は「技と技、気力と気力をぶつけた良い試合だった。昨日よりも今日、今日よりも明日と頑張って下さい。」と述べた。 最知審判長は「一日一日の稽古を大切に、県大会に挑んでほしい」と参加した選手に向け話した。
〔志津川剣道スポ少大会記〕
志津川チームは志津川スポ少の2名と志中剣道教室の1名の1チーム3人で参加し、他団体の5名との対戦となった。参加チームは4団体で、1勝2敗で3位入賞を果たした。先鋒の安部が1本づつ取り引き分け、中堅の安部が1本勝ちし、大将の三浦は2本勝をした(2名の不足分は不戦敗)。実質的3位決定戦は、雄飛Bとの大接戦に会場からは大きな声援が飛んだ。
個人では安部陽が3学年以下で3位入賞し、5年生の三浦誠矢が2位となった。本吉郡内の剣道スポ少の人数が減少にあり、是非「志津川スポ少」を見学に来て剣道の楽しさを知り、入団をお願いしたい。
南三陸町歌津に東日本大震災慰霊碑建立
地区の死亡・不明119名の名前刻む
「早く慰霊の場を」との家族の願いが叶った。旧歌津駅の裏山の、伊里前市街地そして歌津湾を望む高台に、慰霊の丘が整備された。4月29日10時から慰霊碑の入魂式が家族と町民が集まり、慰霊碑建立に立ち会った。
入魂式に先立ち、集まった150名全員で海に向かい黙祷で入魂式は始まった。歌津地区の地元の西光寺・津龍院の三人の方丈様の読経の中で、亡くなられた家族に思いを馳せ、参列者が一人ひとり白い菊の花を献花した。
「鎮魂の森」は前歌津町長の牧野駿さんが、自費で1haの山を整備し、「誰もが手を合わせられる場所を」と、歌津を見下ろせる場所に119名の名前を刻んだ慰霊碑を建立した。設計は世界的建築家の安藤忠雄氏が手掛け、四季折々の草花で周囲を包んでいる。桜の苗木15本は、防災庁舎で亡くなった歌津地区の職員の数で、慰霊碑を包むように配置した。牧野さんは「後世に子供たちにこの大震災を語り継ぎたい」と話す。
慰霊碑には「倶会一処(くえいっしょ)」の文字も刻まれ、あの世で再会できるという意味である。家族・友達の刻まれた名前を手でさすり、在りし日の事に思いをめぐらせていた。
創立90周年の節目の卒業式
友達・先生・家族に感謝
「お母さん ありがとう」
平成26年度志津川高校「卒業証書授与式」が、平成27年3月1日小雨模様の中、静寂に包まれた体育館に350名が集まり、主役の卒業生と父兄・在校生の見守る中で開催された。
情ビ科第17回生の26名の代表として山内瑠奈さんが第634号の卒業生を代表し卒業証書を受け、普通科は第67回生の3年2組の代表で首藤謙太君の第9048号を始め、3組まで89名が卒業した。総勢115名が志高を巣立つ事となった。
佐藤充幸校長は「式辞」で、ご父兄への3年間の苦労に感謝を述べた。「広陵とした光景があり、不便な生活環境に耐え、生きるあかしを証明した。」と生徒を讃え「自らが選んだ道へ、学びは更に続き、心の目を開いて欲しい」と語った。それには「謙虚な気持ちで、他人の話しを聞いたり、専門家の話しに耳を傾ける。そういう学び方の基礎を学ぶ事が本校だった」と話した。その他にも、社会では責任と覚悟が必要、社会的な変化に対応していく、ねばり強く努力する事で、自分を磨くには学ぶしかない、と卒業生への多くのはなむけの言葉を贈った。
佐藤町長は祝辞で「90周年の節目の卒業おめでとう」と祝福した。
在校生の代表の「送辞」では、阿部かずき君が「先輩を私たちはほこりに思っている」「輝かしい先輩の1ページに私たちも加えてもらいたい」と話し、志津川高校をより発展させる事を誓った。
卒業生の「答辞」では、大坂凌平君(歌津出身)が「ふるさとに少し寂しさをおぼえた。震災から復興へと光景が変わった」と今の気持ちを語った。志高での部活、勉強では、厳しさ・精神力・目標など、青春の想い出に大きな価値があったと振り返った。「友達として大きなかけがえのないものとなり、ありがとう」「成長させてくれた先生方に感謝」「誰よりも感謝したいのは家族」と語った。そして母の優しさを思いだし、大きな声で参加した多くの方々の前で「お母さんありがとう」と述べた。会場の母親たちの目からは涙がこぼれ、ぬぐう姿があり、父母への感謝の気持ちを伝えた。結びに、友達・先生・家族から学んだことを、人生に生かし一生の財産となったと語り「本当にありがとうございました」ともう一度大きな声で叫んだ。
昨年の11月11日の創立9 0周年にあたり、登校坂には写真のような大きな看板が設置された。
現在進む志津川地区「西工区」の土地の造成も後半にさしかかり、看板下には残土の運搬道路ができ、ひっきりなしに大型トラックが走っていた。
登米市に移転した方々による
「谷川賢作ジャズコンサート」開催
9月7日に登米市で行われた「谷川賢作コンサート」は、東北ツアーの2カ所目にあたり、前日は古川で開催され明日は岩手水沢に行き、3日間のツアー開催だと言う。ジャズコンサートでは小さい会場ながら、ジャズファンが会場を埋め尽くした。
登米市の会場は「田園喫茶店」で70名余りの来場者があった。1割が南三陸町にゆかりの方で、大多数が登米市の皆さんだった。佐沼のピアノ店が尽力され、戸倉折立の佐々木さんが賢作さんの
繋ぎ役で、笹原診療内科の笹原先生のバックアップ、仲間がそれを支援した。登米市佐沼の安心安定した街、多くの市民がいるこの街でのコンサート開催は、登米市民と南三陸町から生活の地を佐沼に移した方々との交流が生まれた機会となった。
賢作さんは谷川俊太郎さんの息子さん、志津川でも惣内の杉田さんの会場でジャズコンサートを以前開催し、南三陸町の方々にも多くの愛好家がいる。
人のつながりから生まれた
木内秀信コンサート(会場リッチー)
5月29日新沼田団地の手前にオープンした「ランチ&コーヒー・リッチー」で、「木内秀信」のミニライブが9月27日開催された。
リッチーさんでのミニライブは何の宣伝も無く、無料のコンサートで、30名余りの来客の中、トークに木内さん独特の歌風に癒しの一時だった。
また、彼は声優でもあり「テニスの王子様」の忍足侑士役をしていると言う。
今回のライブには人と人との繋がりから実現した。店で働くボランティアの方とパーカッションメンバーが知人と言う事で、仙台のライブの前日に南三陸町に来てくれた。木内さんも阪神淡路の大震災体験者で、被災地支援に来てくれた「沖縄自衛隊隊員の姿がかっこよく、迷彩服にあこがれた。」と話す。震災直後に南三陸町にも沖縄自衛隊が被災地支援に来てくれた事もを思い出す。何かの縁があった気がする。
来場者には長崎・岡山・東京と全国からのファンも集まった。13時間掛けて被災地「南三陸町」
まで来ましたとの、観客とのトークで知った。被災地の為に支援ライブで町外からの来町者には感謝したい。
植樹祭記念コンサート
第3回桜植樹祭の「植樹祭記念コンサート」が5月11日(日)ベイサイドアリーナ「交流ホール」で開催された。
12時からのコンサートは、LOOM NIPPON代表の加賀美さんが挨拶で「南三陸町は2011年世界の地から消えた。一瞬にして消えたとして世界のメディアは一斉に伝えた。災害の希望の動きを考えた時を、思い出したくない。」の言葉は、新鮮なメッセージとして、私たちは心を打たれた。1回目の桜植樹で170本、3回目の今回で851本が植えられた。南三陸町の復興は皆が立ち上がる事という。無名の人たちが多くの人たちを助けた。病院の看護師さん、学校の先生が子どもたちを守った。世界中の人も「人類愛」「兄弟愛」という形で、より南三陸町は勇気の象徴となったと、話した。
最大の支援者であるフランスのドール社からのメッセージが読まれた。「私たちはずーと続けます、毎年来ます、『ありがとう』係る多くの方々に感謝します」と結んだ。
地元のコーラス団体の参加があった。「コール潮騒」さんは震災で会員がバラバラとなり、会の洋服も流され一時再開を諦めた時があったが、歌で被災者の皆さんを力づけたいと、再度グリーンのTシャツを新調し活動をスタートした。
会長の挨拶・司会者の団体紹介の言葉・活動の姿に心を打たれ、後援に町と南三陸森林組合があたり、受け皿問合せ先として入谷地区に新設したアストロ・テックさんが活動を支援した。「5000本」の桜の植樹を続け、10年後20年後に桜の花が溢れる南三陸町になるよう活動して行く。
今回のコンサートにも有名な音楽家の方々が参加してくれた。その中に清泉女学院高等学校(神奈川県鎌倉)48名や、坂本九氏の長女 大島花子さんが「上を向いて歩こう」など2曲を歌ってくれた。
コンサート終了後に、南三陸町クリーンセンターの法面と入谷アストロ・テックさんに桜を植樹した。毎年、植樹された苗が花を結び、南三陸町が10年・20年後に桜で満開となり、町民が桜の花びらで包まれる日を夢み、町民皆さんが笑顔に包まれる事を楽しみに、共に頑張りましょうの、メッセージが込められている。
2014/7/5掲載
地域定着型多機能ホーム
地域定着型多機能ホーム 南三陸町に誕生!
先月南三陸町で小規模多機能ホーム南三陸の内覧会があった。町からの指定を、当初は戸倉小学校裏に建設予定だったが、今回の大震災で場所を失った。そして、商工団地入口の交差点の角にある、気仙沼信用金庫の裏に26年度内に開設された。
施設内容は「ショートステイ」「訪問介護」「デイサービス」の3つの介護支援事業を展開する。施設整備のこまい所まで、高齢者の体の不自由を考えた施設整備となっている。ショートステイの洋室は個室で、通常の施設より広いと言う。洗面台は上下し、トイレは左右の不自由な方の為に、右側左側使用の手すりやペーパーが設置されていた。和室は、2部屋で低い段差にも、収納付
施設の定員は、登録25人・通い15人・泊り9人となっている。個室の洋室9つには収納机の一番下には、非常時の備品が備え付けられていた。非常用の貯蓄備品・食糧・水などが、今回の震災で「常備品」として家庭が普通に備える状況となり、今後色々な災害発生で必要性を町民も肌で感じた。設置で非常品を販売する会社と提携している。災害時の避難所としての活用も考えられる。
小規模多機能ホーム南三陸では、地域定着型として24時間体制で通い・泊宿者と顔なじみとなり、一人一人に応じた介護ができる。
高齢化が進み家族の介護支援、独居生活の方々の支援など今後充実を目指してほしい。一人で、家族だけで悩まないで相談して下さい。石巻地域若者サポートステーションへ!
先月会社に「若者の就労・自立をサポートする事業をしています」と男性が来社した。2012.3.11から4年目を迎え、被災者そして事業所の復興はまだまだ先のように感じる。そんな環境で若者のみならず就労の場の確保は厳しい中にある。
15歳から35歳を対象とした自律支援サポートは、「面接をしても落ちる」「人と話す事が不安」「何をどうすればいいか解らない」「失敗ばかりで挑戦する自信がない」など、多くの悩みを抱え、被災し生活をしている。
支援は、①相談・カウンセリング ②コミュニケーション・ビジネスの能力習得 ③職場見学・体験など、学校と連携して、在校生・卒業生・中退者の自立を応援支援する。
一人・家族で悩んでいないで、是非連絡下さいと話している。相談は無料だが予約が必要です。
石巻地域若者サポートセンターは、
石巻市西山町6の39(カムロ第2ビル2階)
電話 0225−90−3671
開所は月曜から金曜で10時から18時までとなっている。
2014/5/17掲載
第11回宮城県テコンドー選手権大会
日時 4月27日(日)
会場 仙台市茂庭台市民センター体育館
南三陸町テコンドー協会は沿岸部唯一の練習所で今大会にも代表選手6名が出場キョルギ(組手)プムセ(型)の部で大活躍、南三陸町の名声を高めてまいりました。
特にキョルギの試合は2分間2Rで1試合4分闘うきびしい試合でしたが、高度な技を幾度となく繰り出し大健闘致し今後の活躍に大きな期待が持てました。結果は下記のとおりです。
キョルギ(組手)女子小学3・4年 準優勝 近 藤 恋(伊里前小3年)
女子小学5・6年 準優勝 阿 部 若 菜(志津川小6年)
女子小学5・6年 第3位 近 藤 月(伊里前小6年)
プムセ(型) 中学高校一般混合 準優勝 阿 部裕貴人(歌津中3年)
2014/5/17掲載
歌で南三陸町の皆さんに楽しい時間を
国道4 5 号の大久保「さかなのみうら」さん前で、テントが張られコンサートが開催されていた。野外でのバフォーマンスや歌で会場からは、笑いと笑顔が溢れていた。
この団体は神戸市灘区の「SELFISH」で、「南三陸町応援団」として、2012年・2013年の5月に町内の仮設を廻り、ライブと炊き出しツアーで、南三陸町支援をしていた。そして3回目の今年も応援に来てくれた。13日は「戸中仮設」「歌津平成の森」で開き、14日に志津川に入りさかなのみうらさん前で野外ライブとなった。大久保地区の皆さんも、早くから駐車場前に集まっていた。
SELUFJSHの皆さんは、地元神戸市で「南三陸町応援団の活動資金にご協力をお願いします!」と、フリーマーケットや出品協力、そして共に活動してくれる仲間と一緒に、「ライブと炊き出しツアー」に参加してもらい、南三陸町を中心に支援・応援をしている。
一緒に来てくれたミュージシャンの石黒明里さんが、「聞いていって下さい」と声を掛けてくれた。そして活動の事を丁寧に教えてくれた。
2014/5/17掲載
3.11「あの日から3年」
東日本大震災3周年追悼式典 震災から3年目を迎える平成26年3月11日。東日本大震災3周年追悼式典が全国で開催された。南三陸町でも2千人を超える遺族・町民、関係者が集まった。この日は特別な日と皆が捉え、4年目を迎え一つの区切りとしての考えもあった。
式典中「遺族の言葉」では、役場職員の殉職者の息子さんが遺族代表の言葉を語った。彼の卒業の時らしく、その時に伝えられなかった言葉を伝えた。「とうさん。無事卒業したよ。4年間ありがとう。4年目を迎え、努力する約束をします。」と檀上で語った。
時間と共に風化していく中、東京オリンピックもあり、何時まで人々が「我が町」を忘れる事無くいてくれるか、と思うことがある。女川町では震災前の人口から28%減少でコンパクトシティーでの早期再建を目指していた。南三陸町は18%の減少があり、市街地再生から住宅地造成の順に、町は事業の展開を進めている。
2014/3/11(3/12掲載)
復興造成が加速!
造成が進む東地区東
3月9日に南三陸町内の入谷から志津川の高台移転の現場を取材した。町民との話の中で町の変化に驚いている。入谷の災害公営住宅も集合ビルの建設と、戸建ての公営住宅の区画も十分に進んでいるようだ。
志津川の東地区の東も山の造成が始まり、赤土の山肌が大きく広がっていた。急ピッチで進む造成だが、この後環境整備として電気、上下水道、区画整理、道路などがあり、まだまだこれからともいえる。サッカーの長谷部選手支援の「あさひ幼稚園」も移築が決定していると聞く。
2014/3/9(3/12掲載)
グラントスカルピン
天然ホヤの前を泳ぐクチバシカジカ 震災前、南三陸町志津川の南町にダイビングショップ「グラントスカルピン」があった。水中カメラマンとして「ダンゴウオ」「クチバシカジカ」のいる海を全国へ発信し、志津川湾の素晴らしさを伝えていた。ショップ名は「クチバシカジカ」の英名で、町の観光キャラクターとして商工会でも使用している。 ダイバーの方は震災後にしばらくぶりで海底を見て「色が無くなった」「陸が海底に沈んだ」と語っていた。しかし、最近海底に潜っての光景は自然の回復の姿も伝えた。2匹の愛らしい魚を見つけ、感動と喜びを話していた。 天然ホヤの前を悠々と泳ぐ「クチバシカジカ」。自然は確かに再生を遂げている。是非「南三陸の素晴らしい海に会いに来て下さい!」2014/3/9(3/12掲載)
志津川高校卒業式
2014/3/1(3/12掲載)
南三陸町の子供たち大活躍!
入賞した子供たち 登米市水の里ホールにて2月11日、第46回「仙北地区ピアノコンクール」が開催され、登米市を中心に石巻、大崎、南三陸から多くの幼小中のピアノが大好きな子供達が集まった。プログラムの発表予定では130名を超える参加者だったが、100名という発表があり大雪の中を集まった。
そんな新春発表会に、南三陸町からも戸小・入小・志津川小・戸中の名前がプログラムに載っていた。5割ぐらいが我が町からの参加を占めていた。E~Aまでの入賞者には、D級で入谷小の三浦さんが最優秀。B級でも戸中の佐々木さんが最優秀を取り、大会の特別賞も受賞され、南三陸町のピアノのレベルの高さに驚かされた。
「遠藤ゆかりピアノ教室」は震災で五日町にあった教室や楽器の全てを流失したが、子供たちの「先生に教えてもらいたい」という気持ちに応え、自宅を改装して無償で子供たちにピアノを指導している。今回、被災しながらも頑張っている子供達を取材してくださいと依頼され、子供たちの活躍を見届けた。7人の参加で大部分が各クラスの賞に入った。
写真は入賞した子供たちだが、半分以上が南三陸町の子供たちだった。子供たちの個人活躍を、南三陸町の仮設で暮らす町民の人達に「子供たちが被災しても頑張っている姿を届けたい」と遠藤先生は話していた。
2014/2/11(2/25掲載)
志津川市街地で人命救助
南三陸町志津川市街地内での「人命救助」で町内の造船業社長、他2名が表彰された。
年越しの前日である昨年12月30日午後4時頃。新井田川河口で歌津地区の釣り人が誤って川に落ち、助けを求めていた。夕方の冷え込む中、河口隣にある造船所社長の千葉さんと、居合わせた人たちが救助にあたった。ロープを使い3人で連携しての救助劇だったという。
志津川地区には3河川があり、その中でも釣り場として行きやすい新井田川河口は穴場として釣り人が訪れている。しかし、河口に向かって右側は津波で破壊され現在も冠水しており、左側はバリケードがあり立ち入り禁止となっている。志津川地区の海岸は被災からの復旧工事が進む中、工事の大型車両が多数行き来している。今年に入り志津川市街地の嵩上げが本格化するなか、危険な環境は至る所にある。まだまだ復興は始まったばかりだ。
2014/1/30(2/3掲載)
体協 長野県上田市から150万円の義援金
南三陸町役場会議室において、1月21日午後7時から平成25年度南三陸町体育協会第2回理事会が開催され、会長・各理事・事務局を合わせ13名が参加した。
25年度の事業報告がなされ、26年度の事業計画・総会開催について協議された。また、白石市体協を通して長野県上田市より南三陸町体育協会への、震災後2回に渡る寄付金150万円の使用についての協議がなされた。上田市には30を超える参加団体があり、昨年7月に高橋会長をはじめとする5名が「ご支援のお礼」にうかがい、上田市長ほか関係者の歓迎を受けた。その後11月に入り上田副市長ほか6名が再度来町され、新たに募金活動で集まった支援金を届けてくれた。
協議の中で150万円の使い道として、南三陸町と上田市との体協団体のスポーツ交流として、上田市を訪れる提案や、上田市の小学校の志津川小への「寄せ書き」が贈られた経緯もあり、スポーツ少年団・指導者の各種大会交流をしてはなど、今後の方向性は事務局と三役で協議する事で会議を終えた。上田市との震災を通した本町との交流を、今後に伝え残す事業の在り方を模索していく。
被災地の体育協会の活動環境整備にはまだ時間がかかる中で、各団体は限られた施設を活用し会員間の交流を深め、協会の継続に努めている。
2014/1/21(2/3掲載)
防災庁舎は町長の「解体」か県知事の「保存」か。
津波の遺構の存続が、年末年始にメディアで「南三陸町防災対策庁舎」の解体か保存かが、県の立ち上げた津波遺構審議委員会で、議論されていると報道された。南三陸町長は、「復興への障害」「保存維持経費」「遺族・町民の心情」などの観点から、解体をすると報道などで発言している。しかし、現在解体は県の管轄となり、県費での庁舎解体の元にある。遺構としての保存の国からの交付金により、後世に残すべきとの世論の声もあるが、町長が「解体」と決定している事もあり、早期復興へと市街地整備を進めてほしい。
昨年11月初旬には「東日本大震災犠牲者 南三陸町防災庁舎慰霊祭」が南三陸町役場跡地でおこなわれ、多くの町民も、遂に防災庁舎が解体されると確信した慰霊祭の開催だった。
大震災で亡くなられた町民・職員や、偶然来町され被災された家族そして関係者など、350人を超える方々が、防災庁舎慰霊の祭壇に真白な菊を献花した。町職員も大部分が参列し起立したままで慰霊祭に臨んだ。
町長は「観測史上最大の震災が起った。この日を境に生活が一変した。」「住民の避難誘導に43名の尊い職員、町民の方々が亡くなられた。」「身をとした活動で町民の命を守った。」「今日までの誇りが生きて、未来への誇りとなるよう、皆さんと頑張っていきましょう」と語った。
杖をつき献花する高齢者の方、家族や母親に手を引かれた子供さんの姿に、多くの方々・報道陣も涙ぐんでいた。多くの南三陸町で亡くなられた遺族の一つの区切りとなった慰霊祭だった。
平成26年を迎えこの問題は今後も長引きそうだ。
2014/1掲載
須藤ほの香さん ローランド・ピアノ東北本選「敢闘賞」受賞
2013年12月1日(日)仙台若林区文化センターで「ローランド・ピアノ・ミュージックフェスティバル2013東北本選大会」が開催され、柳津小3年の須藤ほの香さん(戸倉西戸出身)が小学生部門Aで、東北地区から集まった19名の演奏者の中で、「KIBOU」を16番目に発表し、敢闘賞に輝いた。
3.11の大津波で戸倉西戸の自宅を流出し、現在は津山町の総合体育館仮設で生活している。2011年4月から戸倉小に入学をする矢先の大震災だった。そんな中で続けていた大好きなピアノを、「遠藤ピアノ教室」に通い、練習に励んでの成果が実を結んだ。五日町にあった遠藤ピアノ教室もピアノなどの楽器を全て失い、荒砥の自宅を活用して、遠藤先生からピアノを習いたいとの想いの子供たちを指導している。
須藤ほの香さんは「大変です。練習は厳しいけれど、先生はおもしろい」と話す。普段の会話を通しピアノの指導をする。その結果が東北大会で敢闘賞を受賞した。遠藤先生は「子供たちの頑張りを多くの人たちに伝えたい」と語る。しかし今の環境でのピアノ指導は難しいとも話す。
現在は週1回の練習で2月のコンクールに向け津山町から通い練習を続ける。最後に先生のピアノ演奏とほの香さんの歌で、「かたーい絆におもいを寄せて…」と長渕剛さんの「乾杯」を聴かせてくれた。
2014/1掲載